透明な瞳
それに気づいたのは、恐らくよりも知盛の方が早かった。ふと眉根が寄せられた瞬間、何を思ったか知盛が間合いを取り直し、唐突に失われた圧す力にたたらを踏んだは、同時に手の内からあるはずの重みが損なわれる瞬間をまざまざと思い知る。
見開いた双眸には絶望が宿る。まさかそんな、こんなことがあっていいものか。得物がなくば戦えない。戦えなければ、彼との約束を果たせない。武器を持たぬ兵など、軍場では馬よりも舟よりも価値が薄い。
もはやこれにて勝敗は決したも同然。源氏の兵からは失意と衝撃のどよめきが、平家の兵からは興奮と歓喜のどよめきが広がる。そして、誰よりもの間近にて、あらぬ反応を示したのは知盛。間合いの外でじっと見やっていたと思えば、右手に握っていた小太刀から血糊を掃って鞘に納め、鞘ごとひょいと放ってくる。
「抜け。そう、違わんだろう」
「……何のおつもりですか?」
知盛は片手で軽々と扱っているが、にしてみれば、二刀使いゆえ通常の小太刀より若干細身のそれとはいえ、両手で受け止めざるをえない。刀身の半ばより先を失った愛刀を手放さないまま必死に受け止めれば、得物を半分失ったはずの男は、飄々と切り返す。
「せっかく興が乗ってきたのに、かくな終わり方なぞ、認められるか……。抜け。それは、俺の持つ中でも指折りの逸品だぜ?」
言いながら自身もまた両手で一刀を握り、正眼に構えて知盛は決着をつけようと要求する。
思いがけない展開に、両軍の兵から驚愕のざわめきが走る。だが、知盛は気にしないし、も気に留めるゆとりはない。刃先を失った自身の刀を鞘に納めて舟底の端へと滑らせ、代わりに与えられた刀を佩いて刀身を引き抜く。
体力はもはやろくに残されていない。厭きれるほど血を吸っただろうに血脂に曇らない刃の向こうに、乗り越えるべき相手を見据える。
「来ないなら、こちらから行くぜ?」
二刀使い足りうるのは、一刀を極めたればこそ。両手で握るからには威力も倍増し、剣気と闘気をは必死に受け止める。
再開された戦闘に湧く歓声など知ったものか。激しい動きに髪は振り乱れ、鎧は端々が砕けているし、衣には自分のものとも他人のものとも知れぬ血がべっとりと纏わりついている。柄を握る両手は汗で滑り、全身の筋肉が軋む音を聞いている。男女の体力差は容赦ない。知盛にはまだ余力がありそうだと冷静に判断する一方、は己の限界をすぐそこに垣間見ている。
呼吸が荒い。視界が霞む。喉はひりついて口腔には鉄錆の味。腕が軋んでうまく動かせない。足が震えてうまく動けない。柄と手指の境界はいずこへ。残されたのは、哀絶を覆い隠すかなしき殺意のみ。
その一撃は、誰の目にも自然で、ゆえにこそ不自然だった。合わされた刃は、による斬り込み。受けた知盛が刀の腹でそれをいなすかに見えて、けれどの刃が刃紋を辿るようにして滑り落ちる。
まっすぐに。迷いなく。
導かれる、ように。
重い音が響いた。音源は舟底。対峙する二人の足元。の右肩から砕けて落下した鎧に、血の雨が降る。鎧の代わりに肩に纏うのは白銀の刃。同じように、知盛もまた、その胸を貫いて背を突き破り、陽光に輝く刃を纏う。
「……ほむら、を」
肩が熱い。痛いのではなく、ただ熱い。どくどくと、まるでそこが心臓になったかのように脈打っている。喘鳴がうるさいことこの上ない。視界が暗い。むせ返るような血の香に馴染んだ嗅覚が、場違いなほどに甘い香りを拾う。
「おくってくれ」
圧し掛かる体が重い。二人分の体重を支えるには足が震えすぎているけれど、わずかにでも動けば刃で繋ぎとめた相手にもう二度と触れられないような気がして、最後の気力を振り絞って立ち尽くす。
「今度こそ、醒めぬ眠りの底へと……。迷うことの、ないように」
掠れ、しゃがれた声は常の朗と響く彼の美声からは想像もつかない酷いものだった。だが、その生々しい姿をこそ愛したのだ。繕うことなく、すべてを預けてまどろむ彼を。その魂ごと、命ごと、思いも信念も迷いも醜さも惨めさも全部、ぜんぶ。
柄を握る力さえ尽きたのか、握る気が萎えたのか。落とされた掌が、の腕にかかって小さく震えている。こんなにも悲しい声なのに、結局最後まで涙の一滴さえ見せることのなかった優しい人。冷たい指先に、は知盛の勁さと優しさと、絶望を。想う。
Fin.