朔夜のうさぎは夢を見る

透明な瞳

 船上戦に心得はない。平家にて軍場を渡り歩いていた経験があるとはいえ、すべて陸上でのそれのみ。よって、戦場での馬の扱い、足の捌き方は知っていても、立つ場所が地面ではなく船底となれば随分と勝手が変わってくる。
 ゆらゆらと揺れる足場に苦心しながら手近な舟に飛び乗り、少数であることを活かして果敢に攻め込んでくる平家の将兵を相手取りながら、は背後に随分と隔たってしまった範頼に叫ぶ。
「先に進みます! ご許可を!!」
「いいぜ、行けッ!!」
 常は配下を指揮する立場にあって範頼を補佐するが、初陣にも等しい今回はそんな器用なことはできまい。よって一兵卒として動き回る許可をあらかじめ取り付けていたのだ。
 笑いを含んだ声の、真意はわからない。知ろうとも、知りたいとも思わない。ただ、彼は見逃せる限りは見逃してくれるのだと、それさえわかっていれば十分だった。


 感覚を鎖していても、渦巻く陰の気の濃密さは感じ取れる。随分と派手に怨霊を投入してきたものだと、薄く笑いながらそしては己を見ては心得たように笑う平家の兵達に、小さくはにかんでみせる。
「道を開けろ! 生田にて、わたしは新中納言殿との一騎打ちを約している!!」
 凛と叫べば、場違いなほど愉しげに笑って平家の兵達はに道を譲る。なるほど、なるほどさすがに最後までこうして付き従っているのは、哀しいほどの大馬鹿者ども。敵将を討ち取る功よりも己が主の我が侭をこそ重んじるなど、敏いだけの連中にはとてもではないができない芸当。
 次々に舟を渡りながら、ちらと視線を流せば同じようにして御座舟を目指す味方の兵達がおり、そして見えない先には圧倒的な強大さを誇り、感覚を鎖してなおその存在を知覚せざるをえない陽の気が耀いている。どうやら、望美の許には怨霊が集中しているらしい。一般兵では太刀打ちできない相手たればこそ、その偶然なのか意図されたのかはわからない配置に、ただ素直に安堵を覚える。


 平家の兵は道を開けてくれるとはいえ、それは平家方の水軍衆にまで徹底されたことではない。他よりは圧倒的に少ない、けれど少数とは言いがたい敵と切り結びながら、御座舟が見える頃には、別の経路を辿ってきたのだろう望美達の姿もまた視界に入りはじめる。
 陸上にしろ海上にしろ、軍場にて共通するのは、俊敏さこそが何よりも優先されるという現実。名乗りを上げ、あるいは名乗りを上げるいとまさえなく、御座舟に乗り込んでは切り捨てられて海へと沈んでいく兵達を見ながら、はひたすらに急ぐ。
 神子一行には、八葉である九郎も同道しているはずだ。頼朝の控える源氏方の御座船の警護に残った景時はいないだろうが、よりも格が上の源氏の将に先を越されてしまっては、きっと知盛と刃を交えることはできない。それだけは譲れないし、それは嫌なのだ。


 ただでさえ連戦と長距離の移動に乱れる呼吸が、焦りによってさらに細かく千切れていく。気づけば太陽は天頂にかかり、足元にほとんど影ができない反面、余すことなく光に照らされたその立ち姿が美しい。
「平家が将、新中納言、平知盛殿とお見受けします!」
 切り伏せた兵をそのまま刀を薙ぐことで海へと落とした背中が、ゆるりと振り返る。
「源氏が将、源範頼殿が配下たる暁天将が、一騎打ちを申し入れます!」
 叫び、自分こそが相手だと誇示するように握った小太刀を大きく一閃させれば、周囲の船からわっと喊声が上がる。生田の森での一戦を知るものがいたのだろう。手出し無用とばかりにそれぞれの兵が下がる中、けれどは完全に振り返った知盛が表情を顰めるのを認め、背後に響くいくつかの足音を聞く。


 振り返る必要などない。これほどに強大な気配の持ち主など、心当たりはひとりしかない。
「邪魔立ては無用に願います、神子殿」
 ゆったりと、しかし有無を言わせぬ敵意さえ篭めて刀を横に向けることで、それ以上は進むなとは訴える。さすがにぴりぴりと発し続ける戦意にの本気を悟ったのか、足音がそれ以上響くことはなかったが、声だけはの背中を追い越していく。
「待って。お願い、少しだけ話をさせてください」
「俺は、構わないぜ? この後の逢瀬を邪魔だてなさらないと、お約束いただけるなら、な」
 何を言い出すのかと、思わず露骨に眉を顰めたを見やって小さく笑い、そして知盛はその背後へと声を投げる。
「お前も、少し待っていろ。……約は、違えぬさ」
「……承知いたしました。ただし、この場を動きはしません。それは、ご了承いただきたく」
「無論。俺とて、無駄なことをするつもりはない」
 宥めるようにかけられた声に渋々了承を返せば、条件付けさえあっさりと呑み、知盛は小さく顎をしゃくって話の続きを促す。

Fin.

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