透明な瞳
気に入ったの一言で囲われたの身柄は、飽きたの一言で解放された。邸の周辺に伏せてやきもきしていたらしい範頼配下の兵と早々に合流し、根城としていた集落を引き払ったという彼に追いつけば、早々に進軍が開始される。
率いるは三万余騎の大軍。福原陥落の後、様子見に徹していた周辺豪族を時に説得し、時に武力でねじ伏せ、そして西国は徐々に旗色を赤から白へと染め替えていく。それはさながら、季節の移ろいに応じて紅葉が散り、雪が積もるがごとき容赦のなさで。
神子を連れた一行が熊野から京に戻ったという報せを受け取ったのは秋の中頃。熊野の助力を取り付けたというその報告は、兵の士気を上げるのに大きな効力を奏する朗報だった。それは、西海の水軍との交渉における強大な後ろ盾を得たということ。同時に、そのまま屋島に留まることの不利を感じたのか、平家勢が彦島へと退いたこともまた源氏勢にとっては追い風となる。
「年明けまでかかるかと思ったが、嬉しい誤算だな」
冬晴れの眩い蒼穹を仰ぎながら、笑う範頼の声には気負うものがない。平家の圧倒的不利を見て取るや、もはや西国の豪族や御家人、水軍のほとんどは掌を返す勢いで次々に源氏への恭順を誓ってきた。
勢いに任せて九州へと渡り、抵抗を示した数少ない勢力の中心的一族を早々に攻め落としてしまえば、もはや平家は孤立無援。進むも退くも源氏にはさまれた、絶体絶命の包囲網が完成される。
「……窮鼠は猫をも噛むもの。油断は禁物にございましょう」
同じく範頼の見やる空と海の境界へと視線を向けながら、は冷え冷えとした声で皮肉を返す。確かに平家は孤立無援。もはや時流は源氏の世へと進む奔流と化した。だが、だからこそ。とどめを与えるためのこの戦いでは、熾烈を極める抵抗が待っているだろうことは想像に難くない。
死に物狂いの兵は強い。だが、死ぬ気で挑んでくる兵は、いっそう厄介なものだ。身を守り、命を繋げることへの執着がないからこそ、常識では考えられないような攻撃を平気で仕掛けてくる。大勢としての勝利がほぼ確信できているとはいえ、余計な血を流しすぎることは好ましくない。
空の蒼と海の青が別たれる境界上には、おびただしい数の船影がひしめいている。赤旗を掲げるは平家、一千艘。大して白旗を掲げる源氏は、熊野水軍の舟を含め、三千艘を超える大軍である。
「油断をしているつもりはないぞ。熊野水軍がついているとはいえ、俺達は烏合の衆だ。海戦そのものの心得は、平家の方があるだろうしな」
「還内府殿に新中納言殿、薩摩守殿、能登守殿。福原にて討ち損ねた名のある将が皆揃っている点もまた、厄介でしょう」
「中でも気をつけるべきは、やはり新中納言と能登守だろうな」
打ち破られることを待つ不穏な静寂の中、は意図して呼吸を整えながら、ゆっくりゆっくり、心を凍てつかせていく。これより先、踏み入るは戦場。そこはこの世のにて知る地獄の姿。ヒトがケダモノと化す、闘争本能の渦巻く奈落の闇。闘気を研ぎ澄ませ、己以外のすべてを振りかざす刃にて切り伏せる覚悟を持たねば、あっという間に命を摘み取られる、暴力の権化。
気が昂っていくのを、どこか醒めた意識が睥睨しているのを感じている。力を揮うこと、技能を磨くことの快感を覚えた体は、理性に反して戦場を前にすると疼きだす。恐怖さえ糧としてじわじわと四肢に滲み出す昏い悦楽は、制御を誤ればあっという間に理性を喰い、を単なるケダモノへと突き堕とすだろう。
まず動いたのは、平家の舟だった。海域を横断するよう展開し、睨みあう形にあった最前線の舟がじわじわと距離を詰めてくる。それを受けて、範頼は朗々と声を張る。
「進め! 御座舟を目指し、先帝の御身と三種の神器を奪回することをこそ心がけろ!!」
あちらこちらで声が上がり、それぞれの将の下で指揮される舟が動き出す。目指すは平家軍の中央後ろよりにて控える、絢爛豪華な一艘。そこに目指す気配が待っていることを、広く伸ばした第六感の触手の先に捉え、は腰に刷いた小太刀の柄を握る指先に力を篭める。
Fin.