朔夜のうさぎは夢を見る

時雨のとばり

 随分と隔たってしまった距離を小走りに縮め、その半歩後ろに追いついたが連れていかれたのは、邸の奥にある一室だった。擦れ違う家人はいなかった。彼ほどの地位にある存在が邸に人をろくに置いていない要因は、直視したくない。いかんともしがたいことと、そう思ってしまった自分が悲しい。
 そこは、殺風景な部屋だった。本当に、必要最低限をさらに削ぎ落としたかのような様相は、何よりも雄弁に彼らが追い込まれた状況を語る。
「お前が直々にかような真似をせずとも、手は足りているだろうに」
 物好きなことだ。告げるでもなく嘯いて、知盛は低く喉を鳴らした。
「さて、白拍子殿? せっかくだから、得手という舞なぞ、披露していただこうか」
 そのまま無造作ともいえる風情で、しかし音のひとつも立てずにふわりと腰を下ろし、知盛はゆったりと脇息に腕を預ける。向けられる視線は、敵陣へと単身乗り込んできたの無謀さを責めるでなくからかうでなく、ただ穏やかな郷愁に凪いでいる。
「いかな舞がお好みですか? 剣舞も女舞も、一通り嗜んではおりますが」
 だからも郷愁を返すことにする。嗜んだそれを教えてくれた、あるいは学ぶきっかけを作ってくれたのは、他ならぬ静かに瞳を細めている目の前の男。
「そうだな……。剣舞を、所望しようか」
 そして求められたのは、彼にこそ今ある自分は導かれたことを象徴する一差し。言葉の意味以上の含みを持たせた会話を楽しむ懐かしい気配に仄かに目尻を和ませ、は要望に応えて扇を引き抜いた。
 楽もなければ風情も足りない、あるいはそれはいかにも殺伐とした独り舞台だった。感慨など微塵も感じさせない視線でじっと見据えるただ一人の観客のために、は持てる限りの全ての技量を駆使して扇を振りかざし、袖を翻す。
 剣舞は清めの神楽。残された時間を想い、祈り、は一心に舞いを捧ぐ。


「……蒲殿は、俺とお前と、どちらに牽制を仕掛けたかったのか」
 終焉を向かえた舞には感想など一言も寄越さず、知盛はに腰を下ろすようにと命じた。促されるままその隣にて膝を折ったの大腿にごろりと頭を乗せ、知盛はゆるりと瞼を下ろす。
 蒲殿とは、範頼の別称だ。陣中では耳にすることのない呼称に目をしばたかせ、それから思い至ってはそっと息を吐く。
「手向けだと、そう申されておいででしたが」
「黄泉苞なれば、軍場にて存分にいただくものを」
 無防備に曝された喉元を猫にするようにくすぐってやれば、睫が震えてやわらかく笑う気配が空気を伝う。このまま終わりにしてしまえれば、いっそ楽になれるだろうに。
「今生の別れの前に、逢瀬ぐらい紡いでこいと」
「それはまた、お優しいことだな」
 瞼が持ち上げられ、喉を撫で続ける指をそのままに、知盛もまた腕を伸べての首をゆるりと掴む。やわやわと力が篭められ、長い指で完全に包まれた首が徐々に絞められていく。
「この場で、殺してやろうか?」
「そんなおつもりなど、微塵もないくせに」
 気道が圧迫されながらも、呼吸は絶たれない。ひゅうひゅうと鳴る喘鳴を遠く聞きながら、は歪む視界を知る。急所を取られてもまるで不安など覚えない。急所を抑えても、そこを完全に害する思いを抱けない。こんな有り様で、本当に彼の願いを叶えることができるのか。彼との約束を、違えずにいられるのか。


 瞬いた拍子に頬を伝った雫は熱く、首を覆う指は冷たい。二度と道が交わることがないのだと、それを証し立てる要素しか感じ取れない、けれど二人の道が同じだった頃と寸分の違いもない穏やかに心を預けあう空間。
 だから嫌だったのだ。会いたかったけれど、同じほどに会いたくなかった。揺るぎなくありたいのに、勁くありたいのに、いつまで経っても迷いと躊躇いに揺れ続ける有様など、見て欲しくなかったのだ。
「迷うな」
 指が首から離れ、代わりにもう一方の腕も伸べられての両頬が冷たい掌に包まれる。
「惑うな……お前が惑う様には、俺もまた、惑ってしまう」
 涙を掬い、目尻を拭い、ゆるりと頭の後ろに回された両手に引き落とされては知盛の直衣に額を押し付ける。夏の盛りだというのに、なめらかな絹はただ静かにひやりとした感触を伝えるだけだった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。