時雨のとばり
気に入ったと、知盛は一言そう言っただけだった。だが、その一言こそが絶対の命となる。お蔭では他に誰と顔を合わせることもないまま、知盛が私室として使っているらしい曹司にて日々を送っている。
膳を用立て、運ぶ家人はいるらしいが、知盛の許可がないままに曹司に踏み入る存在はない。お蔭で気づけば用意されている膳に箸をつけ、気紛れのように舞を所望されたり膝枕を提供したりしながら、はそう遠くもない、しかし確かに過ぎ去ってしまった懐かしい日々を夢想している。
ぽつぽつと、交わす言葉は他愛ないこともあれば物騒極まりないこともある。どこの誰が離反しただの、あそこの水軍は敏いだの、知盛は範頼が心待ちにしているだろう情報をこそ紡ぎながら、ぼんやりと浅いまどろみに浸っている。
「熊野は源氏に与するだろう。そうなれば、屋島を捨てるのも……遠くはない、な」
「まだ、長門が残っておりましょう」
「もう、長門しか残っていないのさ」
ゆるく髪を梳くの指運びに合わせて呼吸を繰り返しながら、知盛はくつくつと笑った。
「我らのことなぞ、さっさと見限ればいいものを。……最期まで付き従うと、言って聞かぬ馬鹿ばかり」
「それだけ慕われていることは、誉にございましょう?」
「だからといって、道連れにばかりはできん。それが、主としての務めだ」
あたたかな苦笑が吐息に混じり、薄く持ち上げられた視線が哀しみを湛えて揺れる。
知盛の元に引き取られてから、既に一月近くが過ぎようとしている。大軍ゆえにいくら手間取ったとしても、いい加減、範頼と共に鎌倉を経った軍勢が合流する頃だろう。このままつつがなく前線に立ち続けるためには、なんとしても範頼に課せられた西国平定に従軍し、戦功を上げ続けなくてはならない。
常とは少し色味の違う話題を出してきたということは、きっと知盛の許にもが考えたような情報が届いたのだろう。そろそろこの虚構だらけの白昼夢を終わりにしようと、それはいかにも彼らしい示唆の仕方。
「恐らく、長門が一門の最期の地となろうな」
「……九州は、遠からず落としてご覧に入れましょう。退路をいかに絶つことができるかで、勝敗は事前に決しましょうゆえ」
「それでいい。そうして、お前達の庇護下に……招き入れてやれ」
誰よりも激戦を好み、誰よりも敵陣へと突き進み、誰よりも返り血に濡れ続ける男の、それこそは知られざる一面。誰よりも誰よりも、その刃にて多くの敵を屠ることで、彼は誰よりも深く味方を守り続けている。
「最期まで、と、そう言う輩どもは、最後までつき合わせてやるさ……。ゆえ、片のついた暁には、あれらを拾ってやってくれ」
どこかのんびりとした呟きは、ひたすらの慈愛に満ちていた。誰よりも多くの死を背負う男は、誰よりも、多くの命が生き延びることを強く祈っている。
力なく床に投げ出されていた腕がゆるりと持ち上げられ、ついでに上体を起こした知盛は、そのままの肩を抱きこんでごろりと床に寝そべりなおす。腕の中に閉じ込められる形で引き倒されたは、中途半端に持ち上げた指を直衣の胸元に押し当てた状態で、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「終わる、な」
ぎゅう、と。回された腕に力が篭もり、深い感慨に濡れた声が頭上から響く。
「もうじきだ……もうじき、終わる」
ようやく、終える。視界を閉ざして呟きを聞きながら、は小さく指先に力を篭めて、触れる直衣を握り締める。
「俺を、殺しにこい」
声が呪縛となって己の心に沁みるのを、は黙って感じていた。あまりにあたたかな声で、あまりに残酷な呪縛を織り上げる、それは魔性の音。生も死も、存分に知り尽くした存在だからこそ紡げるのだろう、ヒトから乖離した、声。
「この身はただ、お前ゆえに“ここ”に在り続ける――なればこそ、終焉もまた、お前ゆえに」
「齎しましょう」
震えを誤魔化すように知盛の直衣に額を押し付け、は極力平淡な響きになるよう心がけながら、言葉を編む。
「神にさえ終わりを突きつける、それがわたしの宿す力。いかな慟哭をも灼き払い、絶対の終焉をこそ」
穏やかな束の間の夢は、当然のように目覚めへと突き進む。蜃気楼のように、交わったと錯覚された二本の道は、ただひたすらに真逆の終焉へと続いている。わかっていればこそ目を瞑り、意識を鎖し。は残りわずかとなった夢の欠片をきつく握り締めるようにして抱きしめてくれる冷たい腕の中で、過ぎる時間に耳を塞いでいた。
Fin.