時雨のとばり
唇を噛み締め、はそっと俯いた。
「最後だからと、どうして見逃せるんです?」
迷いがないとは言わない。彼らの日常を目の当たりにすれば、間違いなくは揺らぐ。揺らぎ、惑い、泣き叫んで恨み言を重ねて、きっとひどく惨めな姿で最後の戦場に臨むだろう。
「言っただろ? これが、俺なりの情けなんだって」
本当に、心底呆れ果てた表情で範頼は深々と溜め息をつく。聞き覚えのある言葉を繰り返し、そして伸ばされた腕が幼子をあやすような調子での俯いた頭を撫でさする。
「全部が全部、理解できるとは言わないがな。新中納言が何を考えてたかは、なんとなくわかる気がする」
お前のことを愛したからこそ、他ならぬお前に滅ぼされたいと思ったんだろう。独り言のように呟いて、範頼はゆるゆると動かしていた掌を止めてしまう。
「お前も新中納言も、もう二度と道は交わらない」
「……平家は滅びます。時流は止められません」
「そうだろうな。だが、同じ永訣でも悔いの残り方は変えられる」
止まり、ただ乗せられていただけの掌に、じわりと力が篭められての頭がいっそう沈む。決して、範頼からも表情が伺えるはずなどないほどに、深く。
「今生の別れの前に最後の逢瀬を手向けたいっていう、俺の自己満足だ」
その思いを手向けられることこそがにとっての痛みであり切なさなのだと。知らないはずのない範頼は、掠れた声で紡ぐ礼と謝罪の言葉には何も反応を返そうとしなかった。
普段着代わりに愛用している水干が、よもやこのような形で役に立つとは思いもしなかった。化粧道具に持ち合わせはないが、潜り込むためのつてとして金を握らせた白拍子から借り受けてしまえば問題はない。
身を飾り、芸を買わないかと見覚えのある兵に声をかける。知盛は、基本的に配下に対して非常に鷹揚な主である。規律に反したり風紀を著しく乱すような真似をすれば厳しく罰するが、そうでなければ女を買うのも酒を飲むのも勝手にしろという主義主張を貫いていることを、知っている。
「お前、見ない顔だな。流れの者か?」
「安芸より参りました。厳島は平家の方々にゆかり深き場所。そのご縁にあやかりまして、芸を買っていただければと」
他の白拍子達はすでに顔なじみであったのか、特に咎めだてられることなく敷地に招き入れられたが、だけは呼び止められる。誰何してくる衛士が知った顔のままであることに安堵と後ろめたさを覚えながら、表情を取り繕ってにこりと笑い返してやる。
「お武家様、その子は舞が得意なんですよ」
「そうそう。きっとその子なら、新中納言様のお眼鏡にも適いますって!」
先に招き入れられた白拍子達がきゃらきゃらと笑う。さすがに彼女らは本物の役者だと感心しながらもまた畳みかけようとしたところで、しかし思わぬ伏兵が姿を現す。
目を見開いたのは不可抗力だったと言いたい。それがあまりにも素直な反射的な表情だったため、衛士の表情にわずかに燻っていた疑念の色が払拭されることになったのはあまりにも皮肉な現実であろう。
「……入れ」
門の向こうに立っていたのは、あろうことか邸の主その人であった。慌てて衛士が膝を折り、白拍子達もまたさっと頭を下げて礼を尽くす。ただ、だけが動けない。
「そうまで言うなら、今宵は俺が買ってやろう……。ついてこい」
「しかし、知盛様。この者、まだ身元が危うく――」
「お前は、俺がそこらの白拍子風情に後れを取る……とでも、思っているのか?」
「い、いいえっ、滅相もございません!」
「では、構わんだろうが」
主の傍に得体の知れない者を寄せるわけにはいくまいと、決死の様相で口を挟んだ衛士に冷ややかに切り返し、知盛は踵を返す。もはや聞く耳は持たないと雄弁に物語る背中がゆったりとした足取りで邸へと向かうのを呆然と見送っていたは、我に返った様子で「早くお行き!」と声をかけてくる白拍子達を見やり、そしてようやく地に吸い付いたように動かなかった足をぎこちなく動かしはじめる。
「いいか、くれぐれも粗相のないよう気をつけるのだぞ」
「心得ました」
衛士の脇を通り過ぎて敷地内へと足を踏み入れる前に、厳しい表情で与えられた忠言には神妙な表情で頷く。だが、白拍子風情が名のある公達に対して粗相を働くことへの懸念と同時に、衛士には別の思いもあったらしい。
「伽にと女を召されるなぞ、久方ぶりのことだ。万一ご気色を損ねるようなこととならば、首の飛ぶことも覚悟しておけ」
いっそう潜められた声は、おそらく興味津々の様子で見つめてくる白拍子達の耳に入れないようにするためであろう。ゆえにこそ真実味が強く、は知らぬうちにひずみが広がっていったらしい平家の姿に、そっと袖の中で拳を握る。どうして、どうしてこうも、回りだした歯車は加速を続けるばかりなのだろうか。
Fin.