時雨のとばり
水軍としての規模もさながら、霊地としての威光を背景に強大な力を有する熊野の説得は、一筋縄ではいかないだろう。水軍に縁のものだというヒノエが八葉のよしみとして同行していても、どれほどの効果があるのかは甚だ怪しい。そしてそれと同様に、西海の水軍やら豪族の説得も、ひどく骨の折れる作業であろうことは明白だった。
「今回の福原陥落で、多少はやりやすくなっているだろうがな。それでも、西国は平家のものだ」
「西海の水軍さえ抑えてしまえば、いくら海戦の上手である平家とはいえ、もはや風前の灯ということです」
大命を与えられたことへの士気の高まりよりもむしろ難題を押し付けられたことへの苦渋を示す範頼に、はすげなく言葉を返す。
「西国の豪族は切れ者揃いです。暫し静観を押し通すか、あるいは水面下での繋ぎであらば源氏方になびきましょう」
「根拠があるんだろうな?」
「新中納言殿をはじめ、平家の方々は西国の所領統治のために頻繁に人と文との遣り取りをしていました。それはすなわち、油断のならない相手であるということでしょう」
それは、源氏追討を命じられて各地を奔走し、飢饉の最中での兵糧を確保するために知行国を奔走する知盛に付き従っていたからこそ得たの観察結果。その背景を知っていればこそ、範頼も景時も、それ以上は何も言わずに興味深げに瞳を眇めている。
「警戒すべきは、長門、豊前、筑前の三国。あとは時流になびくことを躊躇いはしますまい」
西国を奔走するにあたり、その三国こそが平家の地盤なのだと他ならぬ知盛が語っていた。後の連中はいつどこで牙を剥くかわからないから、うまく手懐けるのが面倒だと、言って疲れたように視線を伏せていた横顔が脳裏をよぎる。
「それも、かつてお前が聞き知ったことか?」
「あの頃は、よもやわたしがこうして源氏の名を負って平家を追うことになるなど、思いもなさらなかったでしょうから」
薄く口の端を持ち上げ、皮肉と自嘲を篭めた声をしみじみと落としては手の内の杯を呷る。
「平家の拠点は、残すは屋島と彦島くらいなものです。九州を抑え、山陽側からと挟み撃てば、どうあっても彦島までには雌雄を決せましょう
「でも、彦島があるのは長門国だよ?」
「長門は新中納言殿の知行国。そう易々とは落ちますまい。なればこそ、かの地を最後の戦場となせるよう、確実に豊前と筑前を落とす必要があります」
景時の指摘をばっさりと切り捨て、酷薄に笑んだに範頼が苦笑とも嘲笑ともつかない声をこぼす。
「お前は、誰よりも鎌倉殿に性情が近いと俺は思うぜ」
その容赦のなさは、特にな、と。しみじみ嘯く範頼に黙ってこくこくと頷いている景時を見て、は小さく肩を竦めると手元の瓶子から空になった杯に並々と酒を注いだ。
頼朝から範頼に下された命は、大きく分けて二つだった。ひとつはの指摘したとおり、山陽道から九州にかけて、平家勢力をひたすらに叩き潰して歩くということ。そしてもうひとつが、ただ叩き潰すのではなく、源氏に寝返る勢力があれば、それを積極的に獲得して歩くことである。
景時の京への出発を見送ってすぐに鎌倉を発った範頼は、しかし与えられた大軍ゆえに動きが遅いことに業を煮やし、京に辿り着くよりもずっと手前で御家人衆の筆頭に当たる幾人かに進軍の指示を出し、を含むわずかな手勢を率いて斥候に出ることを提案した。
「福原までは落としてある。海さえ渡らなければ、平家勢力が強いのは備中より西だ。出鼻を挫かれては士気も下がるし、ちょっかいをかけない程度に、様子見に徹すればいい話だろ」
「……何を言っても聞く耳など持つ気もなかったのでしょう?」
「どうせ兵が揃うまでには時間がかかる。無駄なことはしない主義なんだ」
十数騎で福原を越え、海の向こうに屋島を臨む備中の東の端の集落に腰を落ち着け、範頼は周囲に放った部下達の報告を聞いている。
「平家もどうやら熊野に使者を送っているって話だからな。こちらから手を出さなければ、余分に兵力を削ぐような馬鹿な真似はしないはずだ」
「言い分はもっともですけれど」
「ついでに、お前も斥候に出ていいぞ」
今、範頼の傍に控えているのはを含めて三名の将兵のみ。万一に備えての手勢を最低限に残し、あとはすべて情報収集に投入している中での意外な発言に、はまじまじと範頼を見返してしまう。
思いがけない申し出に目を見開くに、範頼は少しだけ表情を曇らせる。
「言っただろ? 俺なりの情けだって」
「……これを、見逃せる範疇だと申されますか」
「情報を拾ってくるのならな。相殺できる範囲だ」
肩を竦め、届けられた情報を整理した紙をひらひらと振って範頼は続ける。
「さすがに守りが堅い。これ以上は、周囲から探るだけでは何も拾えない。お前はせっかく女なんだ。それを活かさない手はないだろ?」
「顔が割れています」
「どうにでも誤魔化せ。第一、まさか暁天将が遊び女に身をやつしてまで敵本陣に乗り込むなんて荒唐無稽な話、誰が信じるか」
「たとえ雑兵を騙せたとして、先日は新中納言殿との一騎討ちに臨みました」
「その新中納言は、軍場を離れれば政務に最低限携わるだけでひたすら寝てるって話だ。何とかしろ」
ぽんぽんと言葉を交わし、最後に範頼は呆れたように目を細める。
「お前、わかっているのか? これが最後の機会だから、俺は見逃すって言ってるんだぜ?」
最後の、と。そんなこと、あえて言われなくてもわかっている。院宣の後押しを受け、福原を奪い、もはや源氏の勢いは止まらない。歴史の潮の、なんと正確無比にして無情なことか。
Fin.