朔夜のうさぎは夢を見る

眠れねむれと誘う声

 軍場でまみえ、刀を交わした回数さえこの壇ノ浦で二度目。わずかずつ違うとはいえ、知盛は“この”神子で“白龍の神子”に会うのは三度目だから、人なりは本来知りえる以上に知っている。だが、彼女はどうしてここまで自分の性癖を正しく理解しているのか。
 交えた刀越しにある程度は感じ取れるものだが、これほどとはいくまい。それとも、これこそが神子としての異能の一端なのか。
「そこには、あなたの弟さんもいる」
 つらつらと湧き起こる疑念を思考の隅に流していた知盛は、耳に届いたさらにとんでもない言葉に、はっと視線の色を変える。
「これは対価とは違うけど、理由にはなるでしょう? お願い。重衛さんを助けたいの。力を貸して」
 告げる声を一層潜めるから何事かと思いきや、それはとんでもない要求だった。この戦、源氏の勝利が見えているというのに、神子はさらにその先を見据えている。源氏を敵と言い切り、行方知れずとなっている平家の将のありかを知り、さらには助けたいと言う。それは、決して勝者の凱旋に伴うものではない、不穏な未来。
 戯言と、世迷言と。切って捨てるのはたやすい。だが、神子の瞳には揺らぎも曇りもなく、決して偽りを述べているのではないと強く確信できる。


 生田の森で見失って以来、ようとしてその行方の知れなかった弟。これまで辿った二つの世界において、結局その行く末を知ることはなかった。その実力も知っていれば、気性も理解している。だからこそ案じる思いの裏で苦い納得をしていたというのに、神子の言葉はたやすくその覚悟を覆す。
 殺しきれなかった驚愕からつい見開いていた瞳をゆるりと細め、知盛は薄く笑った。
 三度目の正直というわけか。違う道行きがあるというならば辿ってみよう。見るべきものがまだあるというのなら、確かに、この場を生きながらえるのも悪くない。それに、仮にも神に愛されし神子のたっての願い。叶えれば、己が巻き込まれた人知では量りようのない不可思議について、神に問い質す権利も得られよう。
「承知した……。その願い、聞き届けよう」
「……うん。ありがとう、知盛」
 静かな了承に綻んだ少女の言葉は、飛び込んできた伝令の兵の叫びによって掻き消される。
「も、申し上げますッ!!」
 上擦った声はみっともないほど震えており、一種神聖な空気に満たされていた場をかき乱す。だが、そのことへの違和感やら不快感やらをちらとよぎらせた源氏の御曹司一行は、すぐさま驚愕の表情に取って代わられる。
「頼朝様の御座舟へ、急襲です! 敵の先陣は――還内府!!」
 張り巡らされていた策の核心部分にようやく気づいたらしい御曹司一行は蒼褪めるが、立ち上がった白龍の神子だけは一人落ち着き払っている。


 すぐさま援護に向かうと宣言し、そして知盛を振り返る。
「知盛は待っててね。さすがにあんまり動けないだろうし」
「神子殿の、仰せとあらば……。だが、俺は良くとも、御曹司殿は良くなさそうだぞ?」
 仰々しいほどの所作で頭を垂れてみせ、そのままついと持ち上げた視線で憮然とした表情を隠すことのできていない一行の中心人物を示す。
「なんとでもするからいいの」
 その心情が理解できないわけではなかった知盛だったが、あまりの素直さにほのかな失笑が込み上げる。だが、見定めていた運命を軽々と凌駕してみせた神子の前に、そんな問題は些細なものだったのだろう。あっけらかんと応じ、同行していた熊野別当に手際よく知盛を隠すための舟を用立てて進路をおおまかに指示すると、事態の急展開に唖然としている周囲を急かして別の舟でさっさと御座舟に向かう。
 幼馴染同士の、あるいは生き別れた兄弟の感動の対面に居合わせられないのはなんとも残念だが、少なくともこれであの人の良すぎる客人の行く末を見届ける機会には恵まれたわけだろう。あまりに潔い踵の返しっぷりを半ば惚れ惚れと見送ってから、知盛は小さく笑声をこぼした。そして、呼びかける水軍衆の男に応えて腰を上げ、見えはしない源氏方の御座舟を見透かすように瞳を細める。
 せめてはやつらに討ち取られてくれるなと、珍しくも願うのは“兄”の無事。あの神子がいれば命は保証されるだろうが、知盛以上に、還内府の名は源氏軍にとって重い。その名に潰され、こんなところで死んでくれるな。自分たちには、お前をお前のあるべき場所に無事に還す義務がある。


 神子の指示からある程度予測はしていたが、源氏の御旗印を掲げたその舟は、熊野のものだった。あくまで中立を貫きながらこんなところに紛れているのは、あの切れ者の別当の采配だろう。櫂を握っていない水軍の男に簡単な手当てを施され、軍場から離れるように進む。海戦の覚えはあるが、操舵技術はない。ゆえに口出しも手出しもするつもりはなく、すべて水軍衆に任せてぼんやりしていれば、喧騒の向こうからついと寄り添ってくる舟が一艘。
 疲労と憔悴、混乱と憤懣。複雑で重苦しい気配に満ち満ちたそこには、絵に描いたような呉越同舟が完成している。
「知盛!? お前、生きてたんだな!!」
「兄上こそ。……ご無事な様子で、何より」
 陰鬱な空気を背負ってふと首をめぐらせ、途端に表情を明るくした“兄”に知盛はゆるりと口の端を持ち上げる。疲労困憊しているだろうに、しきりに良かったと繰り返す声は弾み、瞳は潤んでいる。
 ああ、もしかして、これまで辿った二つの歴史において、自分はこの男を泣かせたのだろうか。ふとそんなことを思い、知盛は少しだけ目尻を歪める。ならば彼にほんのわずかにでも安堵を与えられただけで、こうして永らえた意味は、なかったことにはなるまいと。

Fin.

back --- next

back to 遥かなる時空の中で index
http://crescent.mistymoon.michikusa.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。