眠れねむれと誘う声
「死なせない。私に負けたくせに、死ぬなんて許さない」
場を支配しているのは、華奢な見かけのたった一人の少女。なれど、世界を護る神に最も愛された、稀なる少女。形容はいくつか耳にしていたが、知盛が思うのはただひとつ。この娘は、己の死を託すに足る武人なのだと。
「生きなさいよ。あなたが死んだら、悲しむ人がいるじゃない」
天の頂をわずかに降りはじめた太陽を背に、神子たる少女は唇をわななかせる。
「せっかく生き延びたのに、自分から命を捨てるような真似はしないでよッ!!」
涙混じりに訴える神子の背後には、複雑な表情の源氏の大将と、困惑している“義兄”の実弟、驚愕を浮かべる従弟、それから、読めない表情で静かに見やる残りの面々。ちらと見流しただけでこれがすべて神子の独断による行動と判断し、知盛は双眸を眇める。嘲るように、慈しむように。
「生き延び、そしてどうしろと……?」
「わからないなら、それを考えるために生きればいいじゃない!」
「……わかっていないのか、源氏の神子。ここは軍場。お前は源氏の旗頭で、俺は平家の将だ。こんな馴れ合い……、お前を崇めるすべての兵への裏切りに映るぞ」
反射的に叫び返す神子は、揶揄を孕ませた問いの真意には気づいていないようだった。呆れ交じりに指摘してやれば、虚を突かれたようにその双眸を円く見開く。
じくりと痛み、血が滲む腕の筋肉の硬直具合から術の緩みを察し、もう一息とばかりに畳み掛ける。
「囚われ、鎌倉に送られるのはごめんだ。……面倒、極まりない」
「だからって、入水しなくてもいいでしょ!」
「何も、お前の手で止めを刺せとまでは求めていないんだ。気遣いに感謝してもらいたいくらい……だぜ?」
真に最期を託すというならば、相手の刃で命数を断ち切られてこそだろうが、それは平和な世界に生きていたという娘には酷なことだろう。向ける言葉は知盛の真意。
「せめて、邪魔立てはするな。俺はもう、なすべき責務は果たしたさ……」
ここで永眠につける保証はないが、それでも、知盛は疲れていた。
目を覚ますのだとしても、覚まさないのだとしても。いずれにせよ、もうこの場に留まる理由はない。だからいかせろと告げたのに、刀を投げ捨てた少女は頑是無い仕草で頭を振り、術に縛られた知盛の腕に縋りつく。せっかく術が振りほどける程度にまで緩んだというのに、別の力で拘束される。
小刻みに震える体と冷え切った指先を知り、憐れだと、そう素直に感じた。
還内府と呼ばれる以前の青年の初陣で指揮を執っていたのは知盛だった。だからこそ、あの戦がいかに生ぬるく易しいものだったかを知っているし、そんな中でも多大な衝撃を受け、しばらくは食べ物を受け付けないほどに憔悴している姿を見ていた。男であれなのだから、女の身である少女にとって、戦場に出ることはどれほど過酷なことだったろう。
だが、憐れに思いこそすれ、同情する気は微塵もなかった。嫌だと叫び、死ぬなと縋る。けれども少女の目はそれこそ修羅の瞳だった。対峙した知盛が背筋にぞくりと駆ける何かを感じるほどの、深い深い瞳。
軍場を知り、修羅場を知り、地獄絵図と彼岸を踏み越え、そのすべてを飲み下したものだけが持つ、昏い光。
その瞳を持つに至ったということは、少女が軍場を駆け抜けてきたということ。ならば、同じ軍場に立つものとして、持つべき覚悟を持っていろというのが知盛の主張。
生きろと訴えるならば、それ相応の理由を示さねばならない。
源氏軍に所属するものとしての理由ならばそう言えばいい。それこそは勝者の権限。従う気のない敵将をねじ伏せ、従えるのも勝者の権限。だから、それゆえの行動だというならそれでいい。だが、少女は違うと言う。だから知盛は問う。ならばなぜだ、と。
「あなたの力が欲しい」
落とされたのは囁き声。なれどそれは、強く確かな宣告だった。
「この先、私たちはわずかな戦力でもいいからかき集める必要がある」
眉間に皺を寄せ、何を思い出したか、苦渋の表情を滲ませながら神子は口早に言葉を募る。
「源氏軍に降って源氏のために戦えというんじゃない。むしろ、この先の敵は源氏」
「……ほぉ?」
「ほんの少しでいいから、白龍の神子である私に力を貸して」
宣された意外な言葉に思わず反応を示せば、得たりとばかりに畳み掛け、少女は凛と知盛の双眸に視線を据える。瞳の奥を覗き返し、暫しの沈黙をはさんでから知盛はゆるりと双眸を細める。
「見返りは?」
刀を合わせたときとよく似た、しかしわずかに違う興奮が背筋を走る。この娘は、本当に己の欲に忠実で、そしてその貪欲さが俗な穢れにならない稀有な存在。その願いこそが世界の辿るべき道筋だといわんばかりの、曇りのなさ。そしてその願いをこそ世界の辿るべき道に据えることへの、潔いまでの覚悟がぎらぎらと存在を主張する。ただ安穏と宮中に参内していた頃には決して巡りあえなかった真に高貴なる存在を前に、知盛は己が身の僥倖を知る。
だが、神子は神子、自分は自分。同じ欲への忠実さを持つとしても、徒人でしかない自分が俗にまみれているのは、当然の摂理。
「求めるからには、対価が必要だ……。俺は命を助けられた、とは、感じていない」
だから、知盛は己の欲求を告げる。
「俺の道を阻み、あまつさえ力を貸せと望むんだ。……それなりの対価が、必要だろう?」
疲れ、厭き、眠りを求める今の欲を凌駕するほどの欲求を抱かせるなら、その要求に応じるのもやぶさかではない。試すように問いかければ、少女の瞳が凄絶な笑みに滲む。
「この戦の、真の黒幕との戦いがまだ残っているよ。あなたは、あなたの護りたいものを冒したそれを、みすみす見逃すの?」
耳元に落とされたのは、実に壷惑的な誘い文句だった。
Fin.