朔夜のうさぎは夢を見る

眠れねむれと誘う声

 局所的に漂う穏やかな空気に、しかし逆の意味で触発されたのが源氏の御曹司だった。いかにも耐えかねるといった様子で舟底を殴りつけ、声を荒げて還内府に食って掛かるのを、知盛はごくごく静かな、凪いだ心で眺めやる。
「お前が還内府だっただなんて……。俺たちを騙していたのか!?」
「隠してたのは事実だけど、騙してたわけじゃねぇよ。それを言うなら、お前らだって源氏の人間だって名乗らなかったじゃねぇか」
「俺はちゃんと名乗っただろ! 俺は、お前のことを頼りになる仲間だと、そう信じていたのに……!!」
「九郎、その辺に――」
「黙れ弁慶! お前も忘れたわけではないだろう!? 俺たちが、どれほど“還内府”に煮え湯を飲まされたと思っているッ!?」
 主張はもっともであり、裏切られたと叫ぶその思いもわからんでもない。だが、と、醒めた心は冷ややかに呟く。わかっていたはずだ、とも。異母兄との確執も、正体の割れない仲間の怪しさも、すべて気づかずに通り過ぎてきたのは己が過失ではないのか、とも。
「あぁ? んなもんお互い様ってやつだろ? ……こっちだってさんざん被害を被ったんだ。自分だけ被害者面してんじゃねぇよ、九郎義経」
「な……っ、貴様、あくまで自分は悪くないというつもりか!?」
「そっくりそのままテメェに返すぜ?」
 烈火のごとく怒りくるう青年と、吹雪のごとく責め立てる青年と。両者の間で軋む何かが限度を迎えてふつりと切れる寸前、先ほどの気弱さはどこへやら、実に威圧的な有無を言わせぬ態度で「いい加減にしてください」と仲裁に入った軍師の手腕は、さすがといえよう。そのまま狭い舟ながらも二人を引き剥がし、きっぱりと割り切った様子で近くに上陸できる平家方の地はないかと“還内府”に問い返している。
 候補地はいくつか挙がるものの、既に源氏方に寝返っているだろうことは必至。その中でも最もましと思える郎党をひとつ挙げ、一行は沈黙のうちに舟を走らせる。


 結果から言えば、頼みの綱は断ち切られ、しかし彼らには最後の砦たる聖地があった。今回の源平の戦において、最後まで中立という肩書きを守り抜いた海戦の雄。
 庇い立てはできないが、陸にならば逃してやろうと呟く別当の表情は静かだった。それはギリギリの賭け。そして彼らにはその他の手段が残されていない。誰もが少なからぬ傷と多大な疲労を抱えたまま、密かに上陸した熊野の地で一夜の安眠をむさぼり、翌朝には遠く北は奥州へ向けての旅がはじまった。
 検問をやり過ごし、かいくぐり、しかしそれも長くは続かない。追っ手の気配にもはやこれまでかと、それぞれが得物に手をかけたところで、現れたのは銀髪の青年。逃し、導くためにというその言を信じたわけではないが、よほどましかとついていった先で改めて見やれば、それは彼らにとって見慣れた顔立ち。
 思わずといった様子でかわるがわる振り返られることは癪だったが、その思いは理解できた。なるほど驚いた。まさか、こんなところで自分と同じ顔と出会おうとは。
 周囲を見てくるといって去った青年を信じるか否かで議論がなされたが、最終的には神子の「私は信じます」の一言に従う形となった。よく似た顔立ちだからとその関係を真っ先に問われたのは知盛だったが、それにはにべなく「知らん」と返す。もの言いたげな還内府と従弟がどう出るかという点は引っかかったが、誰よりも可能性を正しく見極められるだろう知盛の言に、口出しは控えたらしい。
 もっとも、知盛が青年を『知らない』わけがなかった。雰囲気が変わろうとも、わかる。きっとそれは、血縁ゆえの目に見えない絆というものだろう。確かに、血は水よりも濃いらしい。
 神子が言っていたのはこういう意味かと考えて明けた翌朝、戻ってきた青年は、自らを奥州藤原氏の郎党、銀と名乗った。


 一行のしんがりを歩きながら声を潜め、改めて青年に関する問いを投げかけてきた義兄と従弟に、知盛は、今度は正直に「よくわからん」と答えた。
「あれが重衛であることは、間違いないだろう……。だが、あれは“重衛”ではない」
「……全然わかんねぇ。どういうことだ?」
「瞳が違う。……呪詛か、まじないの類か、あるいはまるで別の要因か。よくわからんが、あれは存在を捻じ曲げられている……そう、感じる」
「その歪みゆえに、本来は重衡殿であるはずの御仁が、重衡殿たることができていないと?」
 未だ難しい顔で首を振り続ける義兄とは対照的に、従弟は理解が早かった。確認口調に首肯し、仕方ないから知盛は義兄にもわかるようにと、より平易な言葉を選んで結論を纏める。
「いずれにせよ、あれが己を“銀”と言うならば、そうなのだろう。ならば、あれは“重衛”ではない」
 抽象的な言い回しだったが、今度こそ言わんとするところは余すことなく伝わったらしい。素直に引き下がった二人を横目に、知盛は神子と会話を交わす機会をうかがう。どうやら少女は人目のあるところではこの話題を出したくないらしい。ならば、奥州に着くのを待つべきか。だが、無事につけるという保証もない。悶々と考えをめぐらせ、結局待つより他ないという結論に至って腹をくくり、知盛は黙って歩を進める。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。