朔夜のうさぎは夢を見る

眠れねむれと誘う声

 目覚め、見慣れた天井の木目を視認すると同時に知盛の胸中をよぎったのは、「いい加減にしてくれ」という嘆願だった。
 今度の目覚めは最初と同じく、福原の邸の自室。体が疲れ切って発熱し、休息を求めているのは二度目の目覚めと同じ。今は“いつ”だとぼんやり思考を巡らせる知盛の耳に届くのは、遠慮も風情もないにぎやかな足音。
「おーっす、知盛! 起きろ、朝だぞ!」
 それこそ遠慮なく御簾を跳ね上げ、どかどかと寝所まで入り込んできた既に馴染みきってしまった気配の持ち主を緩慢な仕草で見上げれば、やはり見慣れた笑みがある。この髪の長さ、この悲壮感の薄さは、まだ和議を巡るごたごたの前かと、無意識に時節を判じるほどに流れを把握してしまった己に気づいて、知盛は無表情の裏で絶望を深める。
 既に目覚めていることを珍しいと言われ、先手を打って体調不良の旨を告げれば深刻そうな思案顔が向けられる。いわく、昨夜遅くに院からの文が届き、その内容について話したいと思っていたのに、と。
「それは、申し訳ない……。だが、今の俺に、ものを考えるのは無理だぜ?」
「わかってるって。邪魔はしねぇし、人払いもかけとくよ」
 それでも青年は心得たもので、体調不良を訴える蒲柳の質の相手に無理を強いることはなかった。
「あとで様子を見にくるけど、食事はどうする? 粥でいいか? 重湯にしとくか?」
「……重湯」
「ん、わかった」
 吐息に絡めた返答をしかと聞き取り、抑えた声での会話のために屈んでいた身を起こす直前、青年は汗に濡れて張り付いた知盛の前髪をさらりと撫でて笑う。
「水差しを持ってきとく。ちっとバタバタすっけど、気にしないで寝とけよ」
 存分に休めと言い残し、訪問時とは打って変わって実に静かな所作で、青年は視界から消えていった。


 またも軍場と、そこここに訪れる細かな差異にほんのわずかずつ退屈を紛らわせながら辿る滅亡への道行き。終わりを知りつつ終わりへ向かう。
 一門の衰退の予感はしていたから、一度目の目覚めの後の道行きもそう深い悲壮感には駆られなかった。だが、二度目以降は違う。終わりを『知って』いるのだ。
 これこそが還内府の垣間見せる昏い瞳の正体かと、思い知ったときにはさしもの知盛も心が打ちひしがれる実感にしばし瞑目したものだ。歴史を変えたい、運命に抗いたい。平和な世界に生きていたというのに、血反吐を吐いてまで軍場に出たがるその心が知れないと思っていた青年は、そうしてさえも力が足りないことを『知って』いたのだ。
 その覚悟の、なんと深いこと。
 そして想う。傷を舐めあうつもりで手を差し伸べた自分たち一門は、どれほど深い愛をこの青年に返されたのかと。


 もっとも、それでも時流は変えられない。平家の衰退は世界の大いなる流れに組み込まれているのだろう。日が昇れば沈み、花が咲けば散り、命あるものは等しく死ぬ。ただ、かつての蘇我氏がそうだったように根絶やしにされるか、今なお脈々と血を繋ぐ藤原氏のように没落し、しかし生きながらえるか。家の栄枯盛衰には、命のそれと違って二つの滅びの道があるのだ。
 還内府が目指しているのは後者の道。滅びが不可避のものであると認めた上で、没落を受け入れ根絶を避けようと足掻いている。
「いいか、簡単に死ぬなんて言うな! 生きるんだ!」
 それは矛盾。誰よりも多くの兵の死を背負う、平家総領たる還内府が紡ぐには、あまりに支離滅裂な願い。けれど、その支離滅裂さゆえに、還内府の願いの深さと重さが際立つ。
「死ぬために軍場に立ってるんじゃねぇだろ!? 護りたいやつ守って、未来に繋げるためには、死んだら意味ないじゃねぇかッ!!」
 酒の席で、鍛錬で、軍場で。叫ばれ続けた言の葉は、気づけば一門の者の胸に染み渡っていた。暗く淀んでいた兵たちの瞳に、獣のような貪欲さが滲み出すのを、知盛は静かに見つめている。
 ああ、では還内府殿。異なれど同じたる我が敬愛する兄上殿。己が立つこの世界は夢か現かと朧に惑い、胸元に硬く揺れる水晶だけを頼りに軍場を往く自分は、生きる意味さえないのだろうな。
 崩れそうになる正気、溢れそうになる狂気をすべて切っ先に篭めて、刃を振るって知盛はただ確かめる。
 自分は生きている。まだここで生きている。だから、なすべきことをなし、見るべき終わりを見るまでは、果てることも狂うことも許されないのだと。


 同じように戦い、同じように敵を屠り、同じように味方を失いながら駆け抜けて辿りついた終焉の地は壇ノ浦。つくづく、自分はこの知行国に縁が深いと嗤いながら御座舟にて待ち受けた源氏の大将、あるいは源氏の神子の一行と呼ぶべき面々と刀を交える。
 すべてはわかりきっていたこと。そう、その先に待ち受けている海の冷たさと静けささえ。
 だというのに、これで終わりかと、脇腹に受けた傷に膝をついて小さく口元を歪めた知盛を襲う別の感触がある。立ち上がり、船べりに向かうよりも先に、耳慣れた硬質な音と共に全身の動きを奪われる。
「……何の、つもりだ?」
「死なせない」
 不可解さと不快さと。とにかく、この傷では無理やりに術を振りほどくこともできない。かろうじて自由になる首を動かし、上目遣いに術を放った相手を睨め付けて低く問えば、震える、しかし凛とした声が返された。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。