眠れねむれと誘う声
さてもさてもと、気を抜けば闇に沈みそうな意識を緩慢にめぐらせ、知盛は首筋に指を這わせる。すぐさま見つけた紐を辿れば、その先には深紫の水晶が凛と揺れている。
まだ確認はしていないが、きっとかの娘はここにもいないのだろうと、心のどこかで確信していた。病臥すればその枕辺に控えているのが常。こうして一人で放っておかれるのが常だったのは、かの娘に傍らを許す前のこと。ならば、ここにかの娘はいないのだ。
いったいどんな嫌がらせか。知盛は水晶を衣の奥に戻して瞑目する。最期を覚悟し、鎧もそのまま海に沈んだはずだった。あの傷、あの鎧、あの乱戦、あの潮の向き。どれをとっても助かる要因など思いつかない。まして、あの戦の“過去”で目を覚ます己など、誰がどうして予測しえようか。
これも夢の続きなのか。まだ夢の只中にさまよっていろというのか。この命の終焉をもって終わらせることさえ適わないというのか。
やりきれなさに歯噛みして、それでもこの世界から抜け出す方法などわからない。
そもそも、うぬぼれでもなんでもなく、知盛は知っている。平家にとって“平知盛”がどれほど重い意味を持つ武将であるのか。なればこそ、安易に立ち去ることはできようはずもない。たとえ“この世界”が己の在るべき世界でないとしても、一門の者は愛しく、その彼らを守らんと奮闘する客人を見捨てるのはしのびないと感じる己を、確かに知っているのだから。
宣言どおり重湯を持って現れた客人は、風通しの良い場所を選んでうつらうつらとまどろんでいた知盛を容赦なく叱り飛ばし、手ずから褥を誂えなおしてその中に放り込んだ。
「どーしてお前はそうなんだ!」
「そう、とは……?」
「だからッ! お前には、自分の体調が悪いって自覚とか! 養生しようっていう心がけとか!! そういうもんはないのかよッ!?」
軽口の応酬は慣れたもの。悔いが残るというのなら、そう、あの日、あの戦の後に、この過ぎるほどに人が良すぎる客人が、無事にあるべき場所に還れたかがわからないということぐらいだろう。
違いなどわからない。肌に感じる硬い感触さえなければ、目の前の彼と昨日までの彼を比較するなどという馬鹿げた真似はしなくてすんだのに。
「ないというわけでは、ない……と、思うが」
「だったらおとなしく寝てろッ!!」
言われたとおりおとなしく世話を焼かれながら感傷に浸り、しかし知盛は、逃れられないのならと改めて覚悟を決める。
たとえどれほど違うと魂が叫んでいても、この世界にいる“平知盛”は自分ただ一人。ならば投げ出せるわけがない。知盛がこの世界においてもあくまで“平知盛”である限り、平家一門が嫡流として果たすべき責務がある。
「……畢竟、俺には、自身の在り方さえ定義する力もない、ということか」
「あぁ? なんか言ったか?」
「………いや、何も」
記憶にある時間をなぞり直すのだとしても、違う歴史を目の当たりにするのだとしても、知盛は、その存在を貫くだけ。それだけが選択肢であるというのなら、それを掴む。最後まで、付き合うだけだ。
しかして歴史は繰り返される。細かな差異はあったものの、そのあらましは変わらない。平家の滅亡は変わらない。だから、知盛の担う役割も変わらない。それを受け入れればこそ、積極的に介入しようとは思わないものの、還内府の突飛な発言への耐性だけは存分に活用した。
そうこうして時間を過ごし、軍場を駆け抜け、終焉はやはり壇ノ浦。同じく好ましい視線で射抜いてきた神子を最期の相手と定め、存分に戦い、もういいだろうと海に沈んだ。
だというのに、やはり歴史は繰り返す。
意識が解け、青に溶け、深く墜ちた眠りの向こうには、不本意にして不可解な目覚めが待っていた。
Fin.