朔夜のうさぎは夢を見る

眠れねむれと誘う声

 悪くない終わりだと思った。醒められなかったことは心残りだが、もしかしたらここでつく眠りの向こうにこそかの娘がいるのかもしれない。いずれにせよ、もうこの世界に用はない。
 わかっていたからこそあんな目をしていたのだろうに、少女は涙混じりの声で知盛を呼んだ。無論、応えるつもりなどない。満たされた最期を演出してくれた少女に別れの言葉を残し、血に染められた、けれどどこまでも澄み切った青に沈む。
 揺れる水面に反射する光。喧騒の遠い閑寂。ゆるりと解ける意識の向こうで、小さな鈴の音を聞いた気がした。それが、最後だった。


 不意に意識が浮上する。途端に明瞭になった感覚の網に引っかかる、覚えのある人の気配に目を開けたのは、遠慮のない足音と呼び声とが聞こえてきたのと同時。
「起きてるかー? つか、起きてねぇだろ、起きろー!!」
 ばさりと御簾を跳ね上げ、せっかくの朝の清閑な空気が一気に乱される。思わず目を瞬かせ、声もなく相手を凝視してしまった自分には微塵の非もないことを主張したいと思った。覚えのある相手、覚えのある光景、しかしあってはならない世界。
「お、珍しいじゃねぇか。ほら、目ぇ覚ましてんならとっとと起きろ!」
 知盛はいわゆる気を読むという手腕に長けている。陰陽師のように修練を積んで、というわけではない。しかし積み上げた経験だの生まれ持った感性だのが告げるのだ。そしてそれゆえにわかる。この場は根の国などではなく、相手は死人ではなく、自分の身体はまだ生きているのだ、と。
「……ありかわ?」
 夢であってくれと願いながら視線を巡らせた先には、太陽のような明るい笑顔がにっかりと。彼岸で見ている幻想と断じるには、あまりにも生気に満ち満ちた姿。
「寝ぼけてんのか? ほらほら、さっさと起きろ! せっかく起きてんだから、起きろったら起きろ!!」
 声が掠れているのは、海水を飲み込んだための渇きではなく、寝起きの渇き。自分は褥の上で仰向けに寝転がっていて、かけている衣は織りが気に入りの一枚で。
 ずかずかと踏み込んできて、床に投げ出されていた手を引いて体を持ち上げる相手も、そこはきちんと心得ているから衣を粗雑に扱いはしない。けれど知盛にはぞんざいな態度で接していて、それが親しさからくる行動だと知っている。


 あまりの混乱に、目が回る。情けないと思いつつもめまいを止めることはできず、力が抜けてくらりと傾いだ上体は、力強い二本の腕にすぐさま抱きとめられる。
「――っと、おい、大丈夫か? もしかして、調子悪いのか?」
 そういえば顔色が悪いかもしれないとか、指先が冷えているぞとか、頭上から降ってくる言葉をぼんやり聞きながら、知盛は必死に記憶を辿る。
 一体どんな悪夢だというのか。これならば、まだ無理やりに怨霊として呼び起こされた方がましだったと、不謹慎なことも考える。こんな、記憶の一場面をいびつになぞるような光景に押し込められるくらいなら。
 声を発そうともせず、眉間に皺を寄せて目を瞑ってしまった様子によほど体調が悪いとでも思ったのか、日頃のおおらかさからは想像しがたいほど丁寧な所作で、青年は知盛を横たえる。
「とりあえず、しばらく横になってろ。薬師を呼ぶか?」
「いや……」
「そうか? でも、無理はするなよ。食欲は――なさそうだな」
 額を探り、首筋を撫で、手馴れた様子で具合を確認しながら青年は判断を下していく。反抗する気分にならないのは、そうして具合を診られることに慣れたから。そして、青年の手つきは、彼がまたこうして具合を診ることに慣れていることを知らせる。
「重湯でも作ってもらうか。少ししたら様子見兼ねて持ってくっから」
「……御身、お忙しいのでは?」
 投げかけられる気遣いに、やっとのことで言葉を返す。それは揶揄に潜ませたひとつの賭け。まさか、まさかそんなはずは。そう必死に否定したがる感情の裏では、返されるだろう言葉を冷静に推測している己がいる。
「お前が生田で踏ん張ってくれたから、しばらくは大丈夫だろ。いいから、仮にも“弟”なんだから素直に“兄貴”に甘えとけ」
「では、そのように。……“兄上”」
 朗らかな笑みは、滅多なことでは“兄”の顔に浮かぶことのなかった類のもの。混乱と絶望から逃げるように視界を閉ざし、そう混ぜ返すのが精一杯だった。


 たった四半刻にも満たなかっただろう会話に、しかしどっと疲労が蓄積されたらしい。蒲柳の質であることは自覚していたが、この程度で熱を出す己の体が恨めしいことこの上なかった。
 もっとも、ふと思い立って確認したところ、傷こそ塞がっていたものの、あの斬り合いも紛れない現実だといわんばかりの痛みと疼きが皮膚の下に残っていた。長時間にわたる激戦の上、海に身を投げたことを体がきちんと覚えていたのだ。それでも、溜まりに溜まった疲労に負けて、泥のような眠りに潜ってしまったのは不覚だったと、改めて覚醒した知盛は息を吐く。
 御簾ごしに射し込む日差しは、そろそろ昼にさしかかることを教えてくれた。気だるい体を起こし、少し離れた場所においてあった水差しと椀を引き寄せる。渇いた喉を潤して人心地ついたところで、寝汗に湿って気分の悪い褥から這い出し、取り替えた単に上掛けを重ねて部屋の入り口の柱にもたれかかる。ひやりと伝わる木材の感触と冬の風が、ほてった肌に心地いい。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。