眠れねむれと誘う声
日々は安穏と、淡々と過ぎていく。違いはかの娘の存在の有無のみと判じたその推察は正しかったらしく、求められる責務も、取り巻く状況も、一切が知盛の知るとおりの世界だった。
だから、知盛もまた娘の在った世界での娘がいなかった頃と同じように、淡々と日々を送る。寝ても覚めても同じこと。長子たる重盛を喪った平家は、静かに凋落の道を辿っている。
深く、遠く。重盛が憂えて見据え、知盛が悟って受け入れた未来は、今やその足音が耳元で響くほどの位置にまでやってきている。だが一方で、予想だにしなかった事態が起こりはじめてもいる。
気まぐれのように清盛が拾ったという客人の存在は、その筆頭とも言えるものだった。
ある程度年かさの面々に言わせれば、その姿はありし日の重盛によくよく似ているそうだ。知盛にとっての重盛としては記憶にない年齢であり、自分の知る兄の顔の、確かに面影を見出せるかもしれないといった程度。何かとちやほやする一門の者を、重盛を喪った心の隙間を埋めるための戯れと、一歩下がった場所から醒めた目で見やっていたのだが、なぜかその客人は、初見以来、知盛によく懐いた。
探し人がいる。その足とするため、馬術を教えて欲しい、というのが最初の要求だった。恐れ知らずにもまずは清盛にねだったらしく、その清盛の紹介という命令では、さしもの知盛も逆らうわけにもいかない。
「だって、しょうがねぇだろ? ただでさえ世話かけてるのに、俺の個人的な事情に、これ以上人手を割かせるのは申し訳ないじゃないか」
「……今の俺は、人手を割かせている状態ではないのか?」
「だーっ、揚げ足とんなよ! 確かにそうだけど、トータルで考えれば、これが最小限だろ!」
「とぉたる……?」
申し訳ないとは思っているんだと、そう頭を下げる表情は実に苦々しかった。もっとも、反応が面白いからからかっているものの、言い分には納得している。おまけに筋が良いともなれば、最初は乗り気でなかった知盛の気散じにもかなう。
時折り飛び出す珍妙な言葉の意味を質すのも、それなりに興味深い。なんだかんだと、懐かれることを愉しむ自分がいるのを、知盛はきちんと自覚していた。
少しずつ気を許す中で、馬の扱いを教えついでに、護身術も身につけなければ意味がなかろうと思わずこぼせば、あろうことか剣術指南まで申し付けられる始末。
何かと面倒ごとを避けて歩きはするものの、実は面倒見がよく、避けたつもりの面倒ごとを背負いつつあるのは己でも自覚している性癖。もっとも、それは興が乗った対象に限られる。せめてもの抵抗とばかりに表に出さないよう細心の注意を払っているためそうと知る者は限られているが、逆に知っている弟だの従兄弟たちだのに微笑ましい眼差しを向けられるのが鬱陶しくて仕方がない。
しかし、それでもほだされてしまったのだから、素直に負けを認めるべきなのだろう。
知盛よりも年若く、戦も政もそのなんたるかを微塵も知らない客人は、時々ひどく昏い目で一門を見据えている。その目が何を見ているのかはわからないが、そういう表情こそ兄と瓜二つだというのは、知盛が認める数少ない客人と兄の相似点。そして、その憂いは時の流れと共に一層の深みを帯びていく。
護身のためにと学びはじめた剣術を、戦に出られるようにと言い換えたのは、清盛が病に倒れてしばらくしてのことだった。現実を知らない子供の世迷言と、それでもやはり筋の良さからそれなりの手ほどきを与え、初陣にと連れていった先で、子供は血反吐を吐きながら兵としての自覚と覚悟を刻んでいた。
「これで、懲りたか?」
あらかたの趨勢が決し、陣に戻った知盛が見たのは、少し離れた木立の中で蹲り、胃の中身を地面にぶちまけている後ろ姿。かたかたと震える背中は、常の豪放磊落な様子からはかけ離れている。
「お前が出る必要など、ないだろう? これに懲りたら、もう、陣に出たいなどと――」
「一人殺したら、後は同じだ」
ゆらりと紡いでいた知盛の言葉を、しかし、子供ははきと遮る。
馬術を教え、剣を教え、弟は手習いを教えているらしかった。一人で満足に着替えられないくせに、女房の手を借りることを恥ずかしがる。ちやほやされる身分に甘んじることを良しとせず、からかいながらも決してもてはやさない知盛の傍を好む、変わり者の迷い人。
いつしか酒を酌み交わすようになり、馬鹿馬鹿しいと断じるにはあまりにも理路整然とした“異世界”とやらの話を皆で聞いた。そこは、戦などなく、刀は宝物でしかなく、人を殺すことが重大な罪として扱われる世界。あまりにも知盛たちの常識とはかけ離れた、まさに月の都。
だからこそ、知盛は客人の覚悟を気の迷いだと思ったし、一度自身の目で軍場を見れば、もう二度と同じ世迷言を紡ぐまいと思ったのだ。予想は微塵も違われず、こうして子供は体を震わせている。己が直面した現実に、怯えている。
「一人殺したら、もう同じだ。だから、次も出るぞ」
「……お前、自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
「ああ、わかってるよ! つまり、今の俺は足手纏いだ! 何の力もなくて、こんな情けないざま曝して、お前にらしくない心配までさせて!!」
そこまで言い切って、ようやく顔を上げた子供は口元を乱暴に拭って振り返る。
「それでも、俺は他に方法が思いつかねぇんだッ! 御大に助けられて、お前らに助けられて、この先を認められなくなった!!」
絞り出されるのは悲鳴。泣き腫らしたのか、眼は真っ赤に充血し、みっともないほどに腫れ上がっている。だというのに、その声には迷いがない。
「どうにかしたい……どうにかするには、こうする以外に、方法が思いつかねぇんだよ……ッ!!」
苦渋はあっても、悔いはあっても、決して振り返らない力強さしかない声で、子供は吼える。
「必ず、今より強くなってみせる。今回みたいに足手纏いになるんじゃなくて、お前みたいに先陣を切って、兵の士気を上げられるぐらいに強くなってみせる!」
なんと、なんと憐れなことか。その瞳の強さも、清濁すべてを飲み下して苛烈に睨みつける表情も、苦悶の滲む、惹きつけてやまない声も。すべてがかの人を思い起こさせる。
「だから、見くびるなッ!!」
一門の誇り。一門の頼り。誰もが慕い、恋い、敬ったあの眩い人。今は遠く及ばないが、きっと遠からずその強さに手を届かせるだろう。なるほど、さすがは一代にて位人臣を極めた傑物の見る目は、凡百たる自分では及びもつかないというわけか。なるほど確かに、これはかの人と同じ魂を持つ存在。
「……進むほど、退く道はなくなるぞ」
「承知の上だ」
「お前は、情にほだされやすい……。なおのこと、退けなくなるぞ」
「わかってる。けど、決めたんだ」
問答はもはや、埒もなし。静かに匙を投げ、知盛は諦めを悟る。
「それは、お前が決めるべき覚悟ではないのに」
憐れなこと。呟きは届いただろうに、反応は得られなかった。
責を負ってなどいないのだ。逃げることも、関わらないこともできたのに。何を好き好んでこの鎧を纏い、その名を纏ってしまったのか。
遠くない未来を静かに予感して、知盛はため息をこぼすと携えたままだった水筒を投げつける。今はまだ、しかし、遠からず必ず。その鎧は、お前に名を与えるだろう。その日までの残された時間を思い、知盛は黙って踵を返した。
Fin.