朔夜のうさぎは夢を見る

眠れねむれと誘う声

 お疲れだったのでしょう。夜風に当てられたのかもしれませんね。
 珍しくも目覚めると同時に自分から起き出そうという気分になったのに、体がついてこない。どうやら発熱しているらしいと悟った頃、様子見と見舞いを兼ねて訪れたという弟に、図らずも状況を告げられる。酔い冷ましと言って宴を抜け出したきり、戻ってこない兄を心配して探しだし、廊で眠り込んでいたところを回収して褥に運んだのだと。
「知盛殿、重衡殿。失礼いたします。膳をお持ちしました」
「ああ、入ってもらえますか」
 記憶にはないが、説明に納得せざるをえないのは己が体質を正しく理解しているから。いつものごとく嫌味と気遣いが織り交ぜられた小言を聞き流す中、膳を運んできたのは見覚えのある、しかし意外な女房。
 確かに、少し前までならば彼女こそが自分つきの女房だったが、今は違う。ここにいるべき彼女はどうしたのだろうか。その性格を知っていればこそ、この状況で現れないことへの不審が大きい。
 テキパキと仕度を整える様をぼんやり見ながら、思わずかの娘はどうかしたのかと問えば、弟も女房も不思議そうに小首を傾げるばかり。
 その反応こそが信じられず、珍しいと自覚しながらも知盛はいっそう混乱する。


 そこは確かに自室であり、取り巻く環境は自分の知っているもの。何も変わっていない。弟も、馴染みの女房も知っているそのまま。自分の今の状態も、そこに至る経緯も、その後の周囲の反応もすべて納得がいく。自分の知る日常。
 だというのに、その日常の中心にあるべき存在が存在しない。何よりも誰よりも、自分のすぐ近くにあるべき存在が、はじめからなかったこととして扱われている。
「あの、兄上? 失礼ながら、仰せの姫君の御名をお聞きしても?」
 訝しげに眉を潜め、それでも律儀に問いかける弟に、からかいの色はない。そもそも、重衡は血縁ゆえの遠慮の無さを多少なりとも持ち合わせているといえ、年上の兄弟に対する礼儀さえ忘れるほどの愚弟ではない。案じる色は本物。だからこそ、知盛は娘の不在を確信する。
「……いや。熱のせいか。夢と現を、取り違えたようだな」
「さようでございますか? 何ぞ特徴でもお教えいただければ、お調べいたしますが」
「夢と知りせば……と、言うだろう? 現にまどろむのは、無粋というもの」
 妙に敏い重衡は納得のいかない様子だったが、面倒ごとを厭えばこそ、知盛は追及の一切に拒絶を示す。それより何より、体のだるさが半端ない。
 おとなしく控えていた女房に声をかけて引き寄せた膳には、用意のいいことに粥が載せられている。それをほんの気持ちばかり、一、二口啜ってみせて人払いをかけると、知盛はとにかく睡眠をむさぼることとした。


 眠り、目を覚ませば元に戻ってはいまいかと。眠る前に抱いたらしくもなく縋る思いに似た願いを反芻してゆるりと瞼を持ち上げるが、かけた衣は眠る前と同じもの。
「……わけが、わからん」
 ぼやいたところでどうとなるわけでもないが、口をつく文句を止める気にもならなかった。諦めとも居直りとも言える感慨を持て余し、着替えた単にその上掛けを纏うだけで部屋を出るも、気づいた女房にあっという間に押し戻される。
 垣間見た空は、明けてよりしばしといったところか。随分寝ていたものだとぼんやり思う向こうで、褥を整えなおすその女房も、昨日と同じ。だからきっと、自分の求める彼女もいないのだろうと、知盛は小さく息をつく。
 彼女がいないということ以外、何の変化もない世界だった。もしかして、彼女の存在こそが幻であり、自分は長い夢から醒めてここにいるのではないかと錯覚しそうになる。
「知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか……、と?」
 口をついたのは遠く海を隔てた大陸の詩。しかし、知盛には彼女が夢ではないと言い切るだけの根拠がある。


 廊から回収された後、着ていた直衣は脱がせて上掛け代わりにされていたが、気休め程度に緩められた襟元からでは、その内まではのぞかない。珍しく着崩すことのなかった装束が、こんな一面で役立つとは思いもしなかった。
 横臥したまま、首元を探って引き出したのは深紫の水晶がついた装身具。護符の代わりにと、祈りを篭めて渡された願いの結晶。
 あれは、湧きあがる苛立ちと衝動に従って娘の裡に抱える闇を暴き、翻って自分の抱える闇を暴かれてからそう経っていない日の夕刻のことだった。
 いつぞやの香を貰った礼がまだだったとか、自分にはまだ背を預かるだけの力量がないからだとか。寝酒を運び、酌をさせようとしたところであれこれと理由をつけて差し出してきた、細い指先の震えを覚えている。
 日頃はいじらしさだのか弱さだのと無縁の、いっそ凛々しいという形容こそが似合う風変わりな娘だというのに、ああなるほどこれも女君であったのかと、妙な感心をさせられたことも覚えている。
 かの娘がそも存在しないのなら、自ら装身具など求めもしない知盛がこんなものをわざわざ身につけているのは道理に反する。よって、かの娘の存在こそが現。その存在が抹消されているこの世界こそが、夢。
 手すさびに水晶をいじりながら、知盛は考えを巡らせる。この世界が夢だとして、しかしどうすれば目覚められるかはわからない。現ならざると断じるにはあまりに生々しい質感に、自我が呑まれそうになる。混沌と巡る疑念の渦の中、己を保つためのよすがは、からかいながら気まぐれに受け取った、胸元の石の欠片のみ。
 なす術がなく、わかることもまた僅少。ならば知盛がとる道はただひとつ。
「醒めるまで、楽しませていただくとしようか」
 くつりと嗤い、落とした声は小さくもさやかに。
 逃れ得ないのならば受け入れ、飲み下し、いっそもてあそぶくらいがちょうどいい。腹を決めたつもりで居直り、しかし知盛はまだ、この覚悟がどれほどの重みをもって自らにのしかかるのかを、知ることができずにいた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。