朔夜のうさぎは夢を見る

眠れねむれと誘う声

 思い出すのは月明かり。あの、凛として、透徹として、つかみどころのない朧な光は、雪だとか桜だとか、儚く舞うものに良く似合う。
 宴の会場に、と己が邸を求められた理由をわからないではなかったが、どうせろくに愛でもしないのだから、結局どこでも同じだろうというのが知盛の正直な感想であり丁重に辞退した口上の本音でもあった。今上帝の外戚という立場を経た平家の威光はいや増すばかり。媚びへつらうやからも秋波を送るやからも、皆あまりにあからさまで無粋なこと極まりない。
 猫を被ることさえできないほど暗愚ではないが、際限なく付き合い続けられるほど寛容でもない。連れていたお付きの女房のことがちらと脳裏を掠めはしたが、娘は母に捉まって談笑している。ならば放っておいてもいいだろう。
 己の性癖を正しく把握していればこそ、日頃は不愉快なことこの上ない自らの蒲柳の質を便利に利用する。戻るも戻らぬも気分次第。とりあえずの責任感はあったため娘の面倒を弟に託し、知盛は適当なところで宴の席を抜け出した。
 十六夜月がしんと照らす廊を、足音もなく、微かな衣擦れだけを残して進む。今宵の宴の会場にと供された父の邸の本殿から臨む桜も存分に美しいが、それ以上に、知盛は自邸の奥にひっそりとそびえる桜木が好きだった。
 淡く薄紅に色づく他の桜とは違い、真白の花弁は夜闇にこそ妖しく映える。仄蒼く、あるいは墨染めの風情を漂わせるそれは、邸の者ならば誰もが暗黙の了解として知る知盛のお気に入り。だから、その場は滅多なことでは誰も邪魔をしないし、迂闊に踏み込むこともない。


 喧騒の名残さえ振り払うように足早に、気の向くままに歩くことで気づけば仕切り直しとばかりに気に入りのその場所に辿りついていた知盛は、月影だけを相手に静寂を愛でる。
 穏やかに細められた双眸が、しかし不意に不機嫌さを滲ませる。物思いに耽る、というほど風情に溢れた時間を過ごしていたつもりはなかったが、せっかく堪能していた、鎖され、完成された空間を破られるのは本意ではない。
「……ナニモノ、だ?」
 もたれた柱の奥へと視線だけを投げかけ、剣呑極まりない声で知盛は静かに誰何する。それまで、己以外の生き物の気配など感じなかったというのに、雲間に隠れていた月が顔をのぞかせると同時に、ふいと見知らぬ気配が湧き、衣擦れの音が響いたのだ。
「桜につられ、月より参られました姫君……でしょうか?」
 続けて漂う甘い香りに、客人のいずれかによるいらぬ気遣いかと、胸中で毒を吐きながら慇懃な口調を取り繕う。いくら月明かりがあろうとも、夜闇の中では御簾の向こうは詳細には見透かせない。それでも、豊かに梳き流された長い髪だけは確か。
 常ならば一夜限りの逢瀬と割り切って相手もできるのだが、いかんせん、今の知盛はたゆたっていた静寂を打ち破られたことへの不快感が先に立つ。
 早々に相手の背後に立つ御仁を知り、当たり障りなくお引取りいただくのが良策。さて、それではどうするか。面倒ごとの予感にこぼれそうになる溜め息を殺していたところに、しかし、響いたのは意外な言の葉だった。


「しろがね?」
 呼びかけられたのは覚えのない名。邸の誰か、いや、百歩譲って六波羅に住む誰かと自分を勘違いしているのだとしても、それはありえない。下働きの者たちの名まですべてを把握しているわけではないが、そんな珍しい名前なら、日々退屈しのぎに餓えている知盛の耳に入らないわけがない。
「そっか……。今日は、十六夜の月だったね」
 声はどこか幼さを残した、年頃の娘のもの。あまやかな、しかし哀切に濡れた声音は微かに震えている。なるほど、やはり自分を誰かと勘違いしているのかと、状況を把握してしまえば不機嫌は関心へとすりかえられる。
 見目で勘違いをされるというなら、相手はおのずと知れる。なれば、繕う仮面もまた慣れたもの。
「いさようとは、まさに御身のための言葉。逢瀬の相手さえ、桜の妖しさにお忘れに?」
「ううん、そんなことないよ。ただ、会えるとは思っていなかったから、ちょっと驚いて」
 揶揄には素直な返答が。そのまま響いた衣擦れは、涙を拭った気配だろう。揺れる袖は、薄紅色。
「泣いておいでなのですか、月の姫?」
「……会えて、嬉しかったから。これで、また頑張れるよ」
 伺うように問えば、わずかな沈黙の後、それまでの頼りなげな気配とは打って変わって声に鮮やかな力強さが宿る。
「きっと、今の私が何を言っても、あなたにはわからないと思う。でも、お願い。これだけは覚えていて」
 凛と、告げる声はあまりにもまっすぐで、知盛は静かに双眸を細める。只者でないことは明白。しかし、狐狸の類に化かされているにしてはあまりに清浄。一体何者なのかと、胸をよぎる疑問は最初のそれに行きつく。


 そして与えられたのは託宣。声に満ちる、言葉に宿る目に見えない力に思わず息を呑み、身を強張らせる。
「会いに行く。あなたを助けに行くよ。それで、必ずあなたも助けて、みんなで生きる未来に辿りつくから」
 力強い宣言でありながら、声は再び濡れていた。これほどの願いと祈りに染められ、誓いに涙される幸福な縁を一体いつの間に結んだのかと、妙に冷静な思考の隅がそんなぼやきをこぼす。まったく、だからあの弟は侮れないし、読めないのだ。
「だから、お願い。生きて――」
 必死に言い募り、そして少女の声は光に呑まれた。御簾の内から溢れてきたそれは、月明かりを研ぎ澄ませたかのような白銀。
 あまりのまばゆさに目を腕で庇い、知盛は低く呻く。何がどうなっているのかがまるで把握できない。視界が灼かれ、聴覚が塗り潰され、言い知れぬ力の奔流に巻き込まれたことはわかった。だが、それだけ。
 ふっと意識が浮上し、目を開けたそこは自室の褥の中だった。まさかあの場で昏倒したのかと、あまりにありえない事態に混乱する知盛に与えられたのは、しかし、その混乱さえ夢としか思えないような、信じられない現実だった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。