朔夜のうさぎは夢を見る

眠れねむれと誘う声

 鎌倉方にとって、九郎一行が平泉に逃げ込むことは予測済みだったらしい。形ばかりの和議のための交渉のかたわら、じわじわと迫る鎌倉の包囲網はえげつないものだった。それでも、ばらまかれた呪詛を解き、来たる開戦のために兵を鍛え、それぞれがそれぞれのできることに力を尽くす。
 こうと決めれば割り切りの良い知盛は、陰陽術の知識も持ち合わせるなど幅広い場面で無難に対応できるため、神子に便利に使われている。二人の間に成り立つ契約を知るものはなかったが、からかい混じりに少女にちょっかいをかけ、言葉遊びに興じる姿に敵意の類は見られない。おまけに、知盛をそれなりに知る平家の二人にそれぞれ「アイツには興味を持ってたからなぁ」だの、「ああも気に入っているご様子だから、裏切られるといった類の心配は無用だ」だのといったお墨付きをもらい、最後の最後まで猜疑心を剥き出しにしていた九郎も、程なく警戒を解くに至っていた。
 そもそも、物心つくかつかないかの頃には「兄上」と呼び、その背中をちょこちょことついて回っていた記憶が朧にある。冷たく見えても、そっけなく見えても、いったん懐に入れてしまえば、わかりにくくも確かな愛情で包んでくれる相手だと知っている。
 実力は折り紙つき。彼がそうすると決めたなら、この上ない味方であることは九郎こそがよくわかっているのだ。


 鎌倉と奥州の和議は決裂し、全面対決に向かって緊張感が加速していく。穏やかならざる一件によって一線を退いた御館に代わって指揮を執る泰衡は不満を隠そうともしなかったが、神子一行が加わることによる戦力増強は揺るぎない事実であり、的確な助言の続く神子の存在を、ついには折れる形で受け入れていた。
 己が運命を繰り返していることを皆にはまだ明かせないというだけあって、これまでに蓄積してきただろう知識を小出しにせざるを得ない神子は、その裏で共犯者ともいえる知盛には先々まで見越した己の知りうる情報をすべて託し、気まぐれに見せかけた伏線を張らせて歩く。
 聞かされたときにはその荒唐無稽さに目を剥いたものだが、予告されたとおり、敵の黒幕は異国の邪神。しかし知盛の存在が神子のいうところの運命を書き替えたのか、状況の廻りはあらかじめ聞かされていたどれとも一致しない。
 標のない混沌を手探りに進み、神子が選んだのは正面からぶつかり合う道。兵をかいくぐっていかに神子を囮に、その神を決戦の舞台に導くかが勝負の分かれ目。味方さえ欺く策を幾重にも張り巡らせ、しかし先に火蓋を切って落としたのは鎌倉方。戦端を開いたのは、たった一人の男に刻まれた呪詛の存在だった。


 あらかじめ伝えられていた知盛ですら、深く胸を衝く衝撃を完全に殺すことはできなかった。もはや血を分けた最後の兄弟の、あろうことか魂に刻み込まれたという呪詛。事情をかいつまんで説明され、脳裏をよぎったのは目にしたこともない焔の海。己が所業に深い罪の意識を抱いていることは知っていたが、戦時下なのだからと割り切れていると思っていた。だが、彼が浮かべていた常の笑顔は、鋼の精神力によって保たれていた仮面だった。
 違和感を覚えなかったわけではないが、気づき、察してやれなかった後悔が胸を噛む。しかし、そんなことを言っている暇もない。
 どれほど意志の力で呪詛を抑え込もうとも、術者の前ではなすすべさえない。ぼろぼろになって大社のやぐらから墜ちた弟を横目に、将としての冷徹な思考に従って神子の許へと急ぐ。覚悟していたとはいえ、年頃の娘にとって、思いを寄せる男の生死が危ぶまれるこの状況は冷静さを失わせるに足るものだろうし、危険極まりないに違いない。敵が愚かでないのなら、この隙を逃しはしないはず。そして、この隙に神子を害されてしまえば、神などというとんでもない存在に抗しうる術は、もはや残されていないのだ。


 駆けて駆けて、直感に任せて庇いだてた神子の無事を確認するのと、背から胸へと突き抜けた灼熱を意識するのは、どちらが先だったか。
 揺らぐ意識。薄れる感覚。そして滲む、絶望。
 もう少し、あとほんの少しで、目を覚ますための術を手に入れられたかもしれないのに。
 胸によぎったのは口惜しいという慟哭。それでも、後悔はなかった。唯一この娘ならばと、認めた神子を守って果てるというのも、中々に乙であろう。
 湧き上がる感情に任せて歪んだ口元は、きっといつもの皮肉な笑みをかたどっているに違いない。
 名を呼ばれているとわかったのは、狭まり、光が失われかけている視界のすべてを埋める勢いで映りこんだ碧玉を見たから。体中が痛みに引きつる。臓腑を傷つけたのか、唇から血があふれる。もうもたないと、まるで他人事のように己の終焉を受け入れる。そして、耳鳴りの向こうには鈴の音。


「知盛ッ!?」
「いけない。神子、離れなさい!」
「どうなってんだ!? おい、知盛ッ!!」
 少女の悲鳴に続けて、声が乱れ飛ぶ。視界が白く霞んでいくのは、血が足りないからか、別の要因ゆえか。
「知盛、約束の対価だよ! 銀は助かったの! あなたのおかげで、私は運命を超えられたの!!」
 感覚が薄れゆく指先に、じわりと温かいすべらかな何かを押し付けられた。
「これを手離さないで。それで、あなたの還るべき場所を強く願って」
 指の上から包み込むようにそれを握りこまされ、手首には細い鎖が巻きつけられる感触。辿る指は細く優しくたおやかで、この手が握っていた苛烈な太刀筋と深い覚悟の矛盾に、おかしさが湧きあがった。
「帰れるよ、きっと還れるから。だから、諦めないで。お願いだから、何もかもを、諦めずに求めて!」
 霞む向こうに見えた碧玉が滲んでいたのは、目の錯覚か。揺れる声が訴える切実さは、神子としての言葉ではなく、少女からの言葉だから。
「私、あなたに感謝してる。あなたに会えて良かった。生きててくれて良かった。本当に、本当にありがとう……!!」


 ぐっと握り締める細くも力強い指に留められ、必死に届けられた声に知盛は薄く笑った。律儀なこと、そしてけなげなこと。もう伝える声を紡ぐことさえ難しいけれど、敬意と謝意を遺さねばなるまいとの衝動に突き動かされる。
「……感謝と、祈りと、言祝ぎを」
 力を篭めた指の中には、神気の塊。応え、応えられた己を、素直に誇りに思う。
「神子殿の道に、幸を願おう」
 鈴の音に掻き消されてしまったものの、それでも言葉は届いたと確信している。声が穏やかだったという自覚があった。そして、まるで音の洪水に呑まれるように、留めていた指が振りほどかれ、意識の混濁の向こう側で体がどこかに押し流されていくのを感じる。
「帰れるから! だから、願うことを忘れないで!!」
 与えられたのは神託。共犯者からの励まし。ならばもう少し頑張ってみるかと、らしくない決意を最後に、知盛は意識を手放す。
 厭いて、疲れて、擦り切れてしまったけれども、もう少し。
 帰れるというのなら、目覚められるというのなら。
 唯一、崇めることを己に認めさせた神子が、そう宣すなら。
 証はない。確信もない。手にしたこれが気休めに過ぎないことは、神子も自分もわかっている。たとえ力を行使できるのだとしても、積極的に使うつもりはない。それは、あの少女が“神子”だからこそ世界から黙認された例外であり、自分が侵してはならない領分だと知っている。
 けれど、もう少しだけ。幾重にも世界を廻らされるという責め苦に、耐えられるかもしれない。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。