眠れねむれと誘う声
沈黙を破ったのは、知盛だった。
「龍のめぐし子たる、稀なる御方……。御身、終焉を失いしこの哀れな身空に、往くべき道の導を、示してはくだされまいか……?」
手向けられたのは、静謐なる祈り。ゆぅるりと瞬く長い銀色の睫が、精緻な美貌に繊細な影を落とす。狂気と絶望の海の向こうで、最後の正気がかそけき光を放っている。
「対価は、払おう。その求めに、叶う限りすべてをもって、応じよう。……ゆえ、俺を、俺の在るべき世界へと、還してはいただけまいか?」
あの十六夜の月夜に出会った少女が目の前の少女でないとしても、知盛を“銀”と呼んだのだから、“白龍の神子”であることは明白なのだ。ならば、その時空を超える奔流に恐らくは巻き込まれたのだろう知盛を再びあの夜に還せるのは、世界は違えど同じ“白龍の神子”である目の前の少女に他なるまい。
どこに行っても知盛が“平知盛”であるように、その存在が確立されている以上、その意義は揺ぎ無いものなのだから。
声音とは裏腹の実に切迫した空気に呑まれていた少女は、しかしさすがは神に選ばれし魂の持ち主。はたりと瞬くことで我に返ると、しばしの逡巡の後、胸元から仄かに光る一枚の鱗を取り出し、知盛の眼前に示す。
唐突な、脈絡の見えない行動に面食らったのだろう。きょとんと瞬きを繰り返す様子はどこか幼く、緊張続きだった神子の心に少しのゆとりを生む。
「これは、白龍の逆鱗。私が時空を超える、その手助けをしてくれているものだよ」
見つめるだけで雄弁に疑問を語る瞳に応え、神子は白龍の逆鱗の能力を説明する。
「私は逆鱗に願うことで時空を超えているの。五行が満ちれば逆鱗は力を発揮して、何度でも私を時空の彼方に運んでくれる」
逆に言えば、少女はそれと龍神が直接関与する以外の時空の跳躍を知らない。だから、逆鱗も持たなければ神との接点もない知盛が時空を跳躍している理由はわからない。
説明を継ぎ足した少女はしかし、それだけでは終わらない。次の言葉を発するまでに暫しの逡巡をはさみはしたものの、ひとつ息を吸い、深く確かな声で誓いを立てる。
「私は、後は銀を助けられればそれでいいの。これ以上運命の上書きをする気はないんだ」
胸元でもてあそんでいた逆鱗を、首から外して神子は知盛と己との間にそっと置く。
「だから、力を貸して。そうしたら、私はこの逆鱗をあなたにあげる」
それは、清々しいほどに迷いのない声で告げられた、とんでもない提案だった。
つまらない常識や良識に囚われることが皆無と自覚している知盛でさえ、神子のその提案には思わず声を失った。意味を考え、示された逆鱗を見やり、正気のほどをつい疑って見やった先では、神子が静かに笑んでいる。
「願いを叶えるには、対価が必要なんでしょう?」
そして与えられたのは、穏やかな声。そういえばそんなことを言いもしたが、だがこれはどうなのかと、混乱する知盛に神子は畳み掛ける。
「私にとって、銀を助けるのにあなたの力を借りられることは、この逆鱗では足りないぐらいの対価だけど、それでもいいって言うなら」
「……仮にも神の力の顕現たる逆鱗を、対価に足りぬもの、などと」
「価値観は人それぞれだし、私の力とは言いがたいこれを対価にしていいかもわからない。それに、私以外の人にも使えるかはわからないから、知盛にとってはこの逆鱗も、単なる装飾品に過ぎないかもしれないし」
ようやく切り返した皮肉には、至極まっとうな正論が与えられる。
「でも、知盛も言ってたよね。これは神の力の結晶。人の枠を超えた不可思議を打ち破るには、人の枠には収まらない力が必要だと思うから」
まっすぐに見つめる瞳には、しかしやわらかさなど微塵も含まれてはいなかった。冷徹に可能性を見極め、手段を示す鋭さは百戦錬磨の知将にして策士を髣髴とさせる。その瞳は、確かに軍場で知盛を惹きつけてやまなかった、貪欲で純粋な修羅の瞳。
「確かなことは何も言えないよ。でも、何もないよりはずっとましだと思う。試す価値はあると思うよ」
どうする、と。問う声は軽やかで、厳かで、そして仄かに含まれた慈愛の気配は、知盛が何と答えるかを既に知っているかのようだった。
庭から差し込むうららかな午後の日差しを受けて淡く光る逆鱗は、知らぬものが見れば単に物珍しい宝飾品にしか映らなかっただろう。春の夜の朧月を思わせる乳白色の光沢は幽玄。そして、気に敏い性質であるからこそ感じるあたたかな波動は、満ち充ちる陽の気を伝える。
「……神ならざる人の身では手にすることなどありえず、行使することなぞ万が一にも許されぬ力だ。お前の願いへの俺の助力は、それを覆し、徒人たる俺にその機会を与えるほどの価値があると?」
そしてお前には、それを与える権限があるというのか。
その本質がわかるからこそ正しく畏怖の感情を抱き、わかるからこそそれを与えようという神子の正気を知盛は改めて問う。貫く覚悟と成し遂げるだけの力を踏まえた上で、知盛は本能的に忌避を覚える神子の所業を受け入れ、認めた。だが、これはそれとは別の話だ。
「勘違いしないで。力を貸してもらうだけじゃなくて、私の願いを叶えてもらうんだよ? それは、あなたに誰かの運命を歪める重責の一端を担わせること。それに、対価になるかさえわからない。人の手に負えない力の塊を、ただ押し付けるだけの結果になるのかもしれない。私は、私の手の中からこの力を失って元の私に戻るだけ」
だが、やはり神子は神のめぐし子だった。いっそ冷酷なまでの切り返しには、静かで確かな観察眼の存在が垣間見える。少女は手にした力を利用したが、それに驕り、人としての領分を忘れてはいない。
「白龍さえ力を取り戻してくれれば、お願いしてもいいんだけど、それはちょっと違うと思うし、どうなるかわからないし。だったら、逆鱗の方が可能性の幅が広いと思う」
甘えるな、見くびるなと叫び、欲したものを手に入れるためには手段を選ばず、しかしそれこそを最善の道となす覚悟と誠意を貫く稀なる魂の耀き。
「それでも俺は、俺の求める結果に辿りつく可能性としてのそれを、対価として求めよう、白龍の神子殿」
なるほど、見るべきものはまだここにも残っていたと、場違いな回想を振り払い、知盛は恭しく礼を執る。
「不肖の身なれど、その願いを叶えるため、尽力することをここに誓う」
言葉は言霊。仰々しさの中に篭めた誠意を感じ取ったのか、朗らかに礼を紡ぐ神子の声は明るい。
大袈裟なまでに肩を上下させて息を吐き出して今はまだと逆鱗を首にかけなおす神子をぼんやりと見やり、知盛は呟く。
「やはり、お前は貪欲な、獣のような女だな。……己の欲求のためには、手段を選ばない」
「何? さっそくけなしてるの?」
不機嫌極まりない声で眉間に皺を寄せた少女は、神聖さの欠片もないごくありふれた娘。本当に不思議なものだと、感じる思いのままに知盛は言葉を継ぐ。
「だが、お前はそれでこそ美しい。純粋な貪欲さ。矛盾を孕み、それを昇華するのは、稀なる魂の持ち主だからか?」
無論、知盛にはけなしているつもりなどない。心からの賛辞が知盛特有のわかりにくい言葉からわかりやすい言葉に移れば、膨れていた頬がみるみるうちに紅潮していく。存外可愛らしい、少女めいた一面もあるのではないかと、今度の感想は胸の中に。
「神子殿の希いと、俺の希いが、いかなる結果に落ち着くかはともかく……。今はただ、その心遣いに謝しよう」
その欲望を満たし、矛盾を隠しもせず、けれど渇仰に誠実に応えようという心を称えずして一体何を讃えれば良いのか。
「――心より、感謝する」
言って深く頭を垂れ、知盛は目の前の少女の高潔さを純粋に讃える。
神子は同じ世界の時間を何度もやり直していると言っていたが、知盛は違う世界を各々に逍遥していると直感している。だから、この神子はこれまでに出会った神子とは別人。だけれども、この神子こそがまさに神の愛し子であると感じる。
ゆえに知盛は、初めて“神子”という立場に対して頭を下げる。後にも先にも、これほどの敬意と畏怖をもって「神子殿」と呼べる存在には、もう出逢えないだろうと思うから。
Fin.