眠れねむれと誘う声
そして歴史はまたも繰り返す。あの日、手ずから握らされた白龍の逆鱗とやらの効能があったかどうかは結局わからなかったが、それが時空を超えるための力である以上、いつか元の世界に戻りうるという可能性を捨てずにすんだ。
やはり同じように軍場を駆け、あらゆる可能性の行く先を見据え、そして沈む壇ノ浦の海中で知盛は願う。さあ、この世界でなすべきことはなした。だから還してくれと。
出会いはまちまちで、それぞれの世界の神子と言葉を交わす機会を得るたびに、お前はどれほどの時空を超えてここにいるのかと、何を欲してここにいるのかと、問い質してみたい衝動に駆られもする。それでも黙っているのは、どの神子もそれなりに興味深いものの、知盛に逆鱗を与えたあの神子を凌駕するほどの思いは感じないから。
自分はどの世界においても必要とされる役所であり、しかし異分子であり続ける。だから、求められた責務は果たすが、無理に介入しようとは思わない。それほど積極的に動くべき世界には、まだ到達できていない。そしてそれは、同じく異分子でありながら世界の中心にさえ手を届かせている神子との距離に繋がる。
世界は違えど、彼女たちはあの神子が言っていたように、時空を超え、歴史を幾度も辿り、運命を上書きしては求める未来を貪欲に追っているのだろう。あの神子はその過程で知盛を必要とした。そして、知盛もまた己の求める終焉のためにあの神子を必要とした。だから二人の距離は縮められた。だが、それ以外において、両者の距離が戯れ以上に近づくことはありえない。
知盛はどこまでも一種の傍観者であり続け、神子の辿る道の上に敵として立ちはだかる。神子に強さを与える礎となる。その、最終的な、そしてある種の意図的な敗北も含めて相反する立場から神子に道を示す標として、あるいは世界に利用されているのが己の存在なのだろうというのが、知盛の辿りついた見解だった。
逆鱗の力もなく、龍神の介入さえなく時空を逍遥する原因はわからないとあの神子は言っていた。だが、ことここに至って知盛は思う。神子も自分も、結局は人。そして自分は、人智を超えた次元で世界にとって利用価値のある道具と見なされ、それゆえに数多の世界によって引きずられたのではないかと。
いまだ果てが見えないのは、きっと“還るべき”世界で“この”自分が“まだ”必要とされていないからであり、“この”自分を必要とする世界が他にあるからなのだろう。ならばと知盛は低く嗤う。
ならば世界よ、あるいはお前の神子への慈悲なのだろう、龍神よ。存分に利用すれば良い。なるほど、こんな突拍子もない、しかしお前達の思惑のために必要だとされる役回りを務められるのは、己のようなどこか気の狂ったところのある存在だけだろう。だが、対価はもらう。
退屈しきっているこの身が唯一の興奮を得られる軍場において、自分を失望させる神子のことなど斬って捨てる。世界にとってどれほどの意味を持つかなど、知ったことか。どこにおいても、知盛は知盛として生きていくのだ。
そして世界よ、龍神よ、覚えておけ。この身は必ず還りつく。己の在るべきあの世界へ。そしてその暁には、あるいは気まぐれに運命さえも捻じ曲げるほどの介入をしようではないか。還るまでに真に気が狂い、お前達の傀儡となったならばお前達の勝ちだろう。だが、そう易々と御されるつもりはない。
幾度だとて海に沈もう。お前達の選んだ神子に納得したなら、それがその世界における己の星宿だと認めよう。だから、だから還せよ世界。帰せよ龍神。この身をかえせ。幾度だとて死を乗り越え、許容し、お前達の用意した“あるべき”未来とやらのために捧げてやる。
だから還せ、在るべき場所へ。
あるいはお前達の描いた未来図をかき乱し、塗り替える俺を、必ず還すと誓え。
それこそが、自分が求める真なる対価だから。
厭いた心を持て余し、一門への思慕を降り積ませ、磨耗する記憶を抱えて知盛は世界を逍遥する。感覚としては幾年も過ぎているのに、確実に知識も技術も経験も積まれているのに、時間が戻されるたびにまるで月が満ちた後に欠けるかのように外見が戻される。積んだ時間の証拠を、綺麗さっぱり拭い取られる。
矛盾を孕み、二律背反を体現しながら責務を果たし、ただ耐える。始まりを忘れるほどに、戻るべき場所の記憶が霞むほどに、ひたすらに歴史を踏み越える。
そしてもはや幾度の死を踏み越えたか数えることを放棄してより、どれほどの時空を巡ったことか。感慨さえ薄く、しかし思考の隅にいつもと同じく、ほんのわずか「これが本当に最期かもしれない」との可能性を巡らせながら緋色に侵された海に沈み、いい加減に還せと呻く。
思うようにならない腕を動かし、鎧の上からそっと触れたのは崩壊しかけた精神を繋ぎとめる楔にしてよすが。戻る、還れる、目覚めてみせる。肺腑から失われる空気の代わりに海水が流れ込み、息苦しさに弾ける意識は耳慣れた鈴の音を拾う。眠りへと堕ちる寸前、瞼の裏に映ったのは、もはや細かな顔の造りなど思い出せない娘が浮かべる、懐かしい仄かな微笑だった。
眠れねむれと誘う声
(お前がいるからまどろもう)
(お前がいないならまどろもう)
(あの眠りを包む水底にならば、お前の夢が、待っていようか)