朔夜のうさぎは夢を見る

眠れねむれと誘う声

 彼女があの彼女であるというなら、この世界こそは知盛のあるべき世界。かの娘の存在が幻想で、身に覚えのない装身具をいつの間にか手にしていたという不可思議は残るものの、この狂気に染まりそうな螺旋は終わる。次こそ、永の眠りの向こうに不本意な目覚めは待っていないだろう。
 だが、彼女があの彼女でないというなら、かの娘の存在を否定しなくてすむ。この世界はやはり知盛のあるべき世界ではなく、もしかしたらまた、命の終焉を見た向こうで目を覚まさなければならないのかもしれない。それでも、心のよすがとしたこの水晶の存在を、否定しないですむ。
 それは複雑な葛藤だった。どちらでありたいかはわからない。それでも、少女の否定に安堵を覚えた自分を、認めなくてはならないと、知盛はただ直観する。
「私の説明はこれでおしまい。何か聞きたいこととか、ある?」
「そうだな……。では、包み隠さずお話いただいた御礼に、他言無用をお願いして、こちらからも……少し、事情をお話しようか」
 ことりと首を傾げる少女は、期待と不安をないまぜにした表情を向けてくる。だが、あいにくと知盛には少女が考えているだろう方向の話をする気はない。銀と名を変えた弟のことは、別段周囲に秘して語らねばならないことではない。
 それよりも、次はいつ巡ってくるかわからないこの機会を、逃すつもりはなかった。
 問い質さねばならない。時空の超え方を知っていればこそわかるだろう、この終わりなき夢からの、醒め方を。


「俺もまた、お前と同じように時空を超えているのだ……と。そう言ったら、どうする?」
 脇息を引き寄せ、姿勢をより楽なものへと変えて紡いだ言葉に返されたのは、鋭く息を呑む音と見開かれた双眸。声はなく、しかし信じられないと雄弁に語る表情にくつりと嗤い、知盛は続ける。
「俺は、お前ほど多くの時空を超えてはいないがな」
 ひたと据えていた視線をそっと外し、ぼんやりと庭に投げて知盛はぽつぽつと言葉を継ぐ。
「これまでに、二度、お前と刀を交えた。……二度、壇ノ浦に沈んだ」
 沈み、これで死ぬのだろうと思ったのに、意識が途切れた次の瞬間には目を覚ます。記憶の中と寸分違わぬ世界で、記憶とはわずかずつ違う時間を過ごす。そのあらましを、記憶にあるまま辿りなおす。
「……戯言と笑うか?」
「笑いはしないけど、でも、そんな……」
「俺にも、なぜこんなことが起こっているのかは、わからんさ」
 ようやく返った相槌にちらと視線を戻し、混ぜ返してから知盛は表情を改める。
「ただ、あの夜……お前ではない“神子殿”が光に包まれて消えた瞬間から、俺の逍遥は、始まった」
 それは静かな責め苦の言葉。八つ当たりと知っていても、その存在を重ね見てしまう以上避けえない感情の発露。そして、それを野放しにすることをよしとしない性情ゆえに、知盛は瞬きひとつで激情を収め、声は常の怠惰さを纏う。


 返す言葉を持たず、告げられる言葉の理解に必死になっているらしい少女を見やりながら、知盛は問う。
「お前ならば、答えられるのか……? どうすれば、この終わりなき繰り返しから脱却できるのか、を」
 声音の温度に変化はなく、言葉の調子に乱れはない。それでも、滲む切実さを感じ取れないほど、少女は人の情というものに鈍感な存在ではない。己の辿ってきた数多の運命を振り返り、知る限りの“平知盛”を思い返しても決して見当たらない側面に、ただ静かに息を呑む。
「そも、これは起こりうることなのか? お前のような……、神に見初められた、特殊な存在などではないというのに」
 投げ出されたそれは、何と呼ぶのがふさわしいのか。嘆き、諦め、悟り、そして自棄。けれど、それだけで終わらないのが知盛が知盛たるゆえんであり、彼の強さの真髄だと神子は直観する。
「もう……厭いた。見飽きたし、聞き飽きた。……こんなくだらない流転など、もう、十分だ」
 平板な声音での回想は、絶望に満ちた独白で幕を下ろす。どんな死地においても飄々と、自信に満ち溢れて佇立していた気高い獣が、神子の知らなかった貌を見せる。そこにいたのは、ぼろぼろに擦り切れた磨耗の果てに、しかし変わらず尊厳ある終焉を望む、高貴な手負いの獣。


 少女ははじめて悟る。彼が、あれほどに疲れきっていた理由を。
「あなたが軍場以外でやる気がなさそうだったのは、だからなの?」
 口を閉ざした知盛はやはり疲れきった様子だったが、神子は追及の手を緩めるつもりはなかった。
「運命の繰り返しに飽きて、死んでも終わらない繰り返しに絶望して、だからあなたはいつも疲れていたの?」
 追求、あるいは確認、あるいはそれは懺悔にも似たるもの。
「だから、あなたは生と死の狭間なんていう、悲しくて儚いものを求めていたの?」
 震える声は、取り繕いようもない。みっともないことだと自嘲する反面、慰めようともしない醒めきった知盛の反応に安堵する。
「……狂いそうに、なる」
 目の前で震える少女になど興味はないとばかりに視線を庭に投げ出したまま、呟かれたのは偽らざる本音だった。
「死の覚悟さえ否定され、わかりきった終焉に向かってひた走り……そして、再び繰り返す」
 静かな声音は、かえって彼の心の疲弊具合を如実に表す。もはや感情を起伏させることにさえ厭いたとでも言いたいのか、その声はどこか虚ろ。
「ならば俺の生きる意味は……何だ? この命を燃やす意義は、どこにある?」
「……ッ!」
「俺は、俺自身の主にさえなれない腑抜けだということ、か?」
 はたり、と、瞬きが落ちる。
「生きているのか、死んでいるのか……。その境界さえも、わからなく……なる」
 感情の一切が削ぎ落とされた、氷のような横顔はなぜか、いつか、軍場で見た死合いに恍惚と酔う狂気と狂喜に染まった笑みを思い起こさせた。


 ぞくりと震えの走る体を咄嗟に掻き抱いた神子をどう思ったのか、ふと口の端に嗤いを滲ませて知盛は謳う。
「ならば、軍場を求めるのは、道理だろう? 少なくとも、あの場における俺は……生きて、いる」
 その核心を突く洞察力の鋭さは、一体どこから来ているのか。心のうちをすべて見透かされたようで居心地が悪く、身じろぐ様さえ楽しそうに見つめながら、しかし知盛の声にはどこか自嘲の色が濃い。
「……血が流れ、痛みを感じ、殺気を向けられ、……死の迫る、瞬間。それらにこそ、魂が震える。その俺は生きていると、それだけは、断言できる」
 謳いあげられたのは切なる独白。はじめから己の強い意思と野望を抱えて自在に時空を駆け抜けていた少女にとっては、想像することもできない絶望。終焉を奪われ、永劫回帰に縛りつけられて滲み出るその狂気を垣間見て、はじめて知る可能性。
 知らないこと、知らせないことは、時に幸福なのだ。
 見飽きた光景、聞き飽きた遣り取り。退屈を感じないといえば嘘になった。けれど、その退屈を仲間達が生きていることへの安堵と、次こそは誰も喪うまいという決意に変えて運命を重ね続けてきた。退屈などと、どうして言えよう。出逢うすべての人々にとっては、神子にとって繰り返しに過ぎないその一瞬こそが唯一無二。
 運命を上書くということは、誰かの運命を歪めるということ。覚悟と責任を胎に据えていたつもりだった。決して軽んじたつもりはなかった。それでも、自分の繰り返すその時間を誰にも知られていないということは、知盛が縛り付けられている永劫回帰の残酷さを、誰にも思い知らせずにすんだということ。
 思い至ると同時に声を奪い、瞬きさえできぬほどに身じろぐ力を奪いつくしたそれが恐怖なのか憐憫なのか安堵なのか。表情を凍てつかせ、瞬きさえ忘れて呼吸を殺す少女に、獣はついと底の見えない視線を据える。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。