ただその道を往く
何の感慨もない、ごく自然な所作だった。摘んでいた二本の指を擦り合わせれば、さらさらと白銀の欠片が闇に舞い、そして宙へと消えていく。
「コレは、数多のカンナギの中で最も潮の中心に踏み込んだ」
お前という存在に関わり、これまでにない枝の分かれを予感させる。この先の未来を、我らは知りつくしてはいない。この世界は、コレがお前と関わることによって分かたれた、新たな道行きを孕んでいる。
「だから、我らはお前に数多の世界を見せることとした。これは新たな道なれど、それはお前に関してのみ。世界のあらましは変わらない。今のお前は、お前を凌駕する大きな枝の内に在り、この枝は虚無が力を持つ枝に続いている。それは変えられない」
だが、その先を変えられる。お前はコレを知ることでお前以外の“お前”とは一線を画する存在となった。ゆえに、我らはこれまでどの“お前”にも分かたれることのなかった新たな枝がさらに生まれることを願い、その先に続く無限に広がる世界によって、虚無の存在を世界が許容しうる矛盾へと落とし込む可能性に賭けることにした。
「お前は、我らが世界を保つための駒として選ばれたのだよ。そして今のお前は、虚無や我らに近い存在と化した。幾重ものお前の“影”を呑み、それらをよりあわせた上で存在している巨大な“影”。虚無に濁と飲み込まれず、裡より食い破る強大な影。お前をそれに仕立て上げるために、我らはお前ではない“お前”の道にお前を送り、幾重もの可能性を知らしめた上で、この世界へと戻した」
鱗の残滓の最後の一粒が消えるのを見届け、知盛は静かに瞳を上げる。思いがけず知らされた悪夢の絡操に、殺すのは憎悪であり怒りであり嘆き、そして謝意であり疑問。対する神は、憂い以外の一切が浮かんでいない瞳を揺らそうとさえしない。
「罵るも、恨むも、呪うも勝手。お前の自由。我らは否定しない。理解せよとも言わぬ。ただ、それが“コレに出逢ったお前”の宿命だったのだと、それを伝えるのみ」
そして、ヒトには過ぎたるその宿命ゆえに、ヒトにはありえぬ対価を与えるのみ。
仮にも神の力の具現を手すさびのままに砕いた指先が、ひらりと翻って掌に蒼白い焔を呼び起こした。
「コレは、己を狐憑きだと思っているようだがね。とんでもない。コレに我らが与えたのは、“私”の加護であり、私を生んだ力だよ」
「神産み神話――迦具土神の血、と?」
「そう。その中でも水を司る私だけが許された、かの神の纏う焔」
意味はわかるね、と。神は焔を娘の胸元に埋め込む。
「本来ならば許されざることだ。これは、人には御しきれぬ力。世界を破滅させることも敵う力。こうして“この世界の私”ではない私がこの世界のヒトにまみえることも、ただのヒトであったお前に数多の世界を見せたことも」
そして、その矛盾は危うさを孕んでいる。コレとお前という可能性に賭け、そのためにコレには人の持ちえざる力を、お前には幾重もの己の死を内包する存在の深さを与えた。これだけ比重を傾けたのだ。お前たちが世界の滅びを望めばこの枝は崩壊し、そしてそれは、我らにとて修復できない混沌と同義となるだろう。
だが、それはそれでひとつの道だと、そう我らは判じたのだよ。
ふいと、神は声を和ませた。
「世界を崩壊させぬために、お前の存在を変えるために、お前に数多の道を見せた。ただ見せるだけのつもりが、お前はどの世界に在っても己という存在を見失わず、世界の有り様を見失わず、己の責をまっとうし続けた……我らの期待以上に、お前は大いなる枝であった。ゆえ、そのお前が滅びへと舵を取るなら、それがこの世界の有り様なのだろうよ」
穏やかに微笑み、そしてお前は世界の滅びなど望まないだろう、と、神は続ける。
「数多の世界でなすべきすべてをまっとうし、そしてより深く我らの賭けに巻き込まれた“お前”への対価は、我らの介入。その形のひとつは、コレの力」
力の行使には代償が必要となり、それが何かは教えない。力の使い方も教えぬ。自力で紐解くことだな。ただ、与えうるすべての可能性を、コレに与えておこう。それを活かせるか否かは、お前次第だ。
「もうひとつは、時空の閉鎖」
既にこの枝の先で生じた虚無は幾重にも時空を渡り歩いているが、この“お前”が歩む道は、すべて時空を閉ざしてしまおう。時という概念に介入するのは、神なる存在としては本当に最小限にとどめるべきなのだがね。お前が選び、歩んだ運命はいかな存在にも捻じ曲げさせぬよ。お前の築き上げた過去という枝を、切り落とさせたりはせぬ。その先がたとえ崩壊へと続く道でも、お前の往く道を守り続けると誓おう。
「数多の世界を俯瞰し、そして確立された“お前”という存在への、これが我らの対価だ。世界を超えるたびにお前が叫んでいた言に、これで応えたと思うが、他に何か望むことはあるか?」
あれば言の葉にしてみるといい。対価の内と判ずれば、いかようにも応えよう。そう告げる双眸のあまりの深さと静けさに、知盛は腹の底で渦巻いていたあらゆる感情が削ぎ落とされていくのを知る。
恨み、罵り、呪いたい気持ちがないと言えば嘘になる。あれは確かに悪夢だった。覚めた今でもまざまざと、幾度となく殺された感触が蘇る。きっとそれは、神なる存在には到底理解の及ばぬ絶望だろう。だが、それゆえに知ったこと、だからこそなせることがあるのも事実なのだ。
「数多の未来を知り、過程を知り、それを踏まえた上で未来図を書き換えようという俺を、野放しになさること自体が対価なのでは?」
自嘲に歪む声は、低く静かだった。
「それは違う。お前は確かに多くの可能性を手に入れた。だが、それを実現できるかはまた別の話だ」
対して答える神の声は、慰めるでもなく否定するでもなく、淡々と事実のみを綴っていく。
「例えばこの先で、お前がその可能性を元に何がしかの判断をしたとする。その結果がお前にとって望ましいものとなろうとそうでなかろうと、お前には引き返す術がない。ゆえに構わない。お前は元より先見の明に富んでいる。それが少しばかり水増しされたのと同じだけだ。なにせお前は、これまで一度も、それらの可能性を『試して』いないのだからね」
何をどうすればどうなるかも知らないのに、可能性を多く持っていることは咎にはならない。未来とは固有のものではなく、数多の道をどう歩むか、その違いのみ。世には先見の夢を見るものもいるぐらいなのだから、それは些細な問題なのだと神は断じる。
「お前一人の力で世界が動くわけではない。お前がどう働きかけようと、揺らがぬものとてあるだろう。この枝が、虚無を生む枝へと続くようにな。その先、お前がどんな未来に辿り着くかは、我らを含め、ナニモノにもわからない」
「俺の選択は俺に帰結し、俺はその結末を知らず、その責めから逃れえない。ゆえに、俺がこれまでに得たいかな記憶を道具としようとも、構わないと申されるか」
「そうだ」
頷く所作は澱みなく、知盛はそっと肩から力を抜く。どことない後ろめたさに駆られながら布石を打つ準備をしていたというのに、それは決して有利なばかりではないと言い切られては、抱えていた仄暗い感情をどうすればいいというのか。
Fin.