ただその道を往く
小さく息をついて、知盛は神に向き直る。
「この身はただ、与えられたすべてを踏まえた上でこうと決めた道を、俺の思う様に歩むことしかできまい。世界だの、時空だの、運命だの、そんなことは考えていられんだろう。それがヒトというものだと思うがゆえに」
「それは決して間違いではない。むしろ、過ぎるほどに正しい、ヒトとしての生き様だろう」
「数多の世界の逍遥に、思うところがないとは申し上げぬ。神たる御身にはおわかりにならぬだろうが、あれは、死を甘露とも焦がれる苦痛。だが、そこで得たものがないとも言えぬゆえ、一方的に恨むことはしたくない」
吐息混じりの言葉に、神はゆるりと目尻を和ませる。遠く、高く、懐深く包み込むそれは慈愛の眼差し。神なる身からすれば、ヒトは皆幼子のようなものかと、思考のどこかでぼんやりと考えながら、知盛は続ける。
「対価を確かに頂戴いたそう。それがどれほどの重みかは、恐らくヒトでしかあれない俺にはわからんのだろうが、それはお互い様。ゆえ、不足があるとは思わぬ。俺の生きる道を阻まず、それをあらざる力で阻む可能性を退けていただけるなら、十分」
ただし、と。迷いながらも言葉を継ぎ、見慣れた顔の見慣れぬ瞳を見据えながら、ひとつの可能性を示唆することは忘れない。
「その娘は、まるで別の世界からここに飛ばされたのだと、そう申していたが」
「ああ、そうだ」
カンナギの器に、世界の別は関わりない。ただ、無限に広がる世界の中に、輝く魂を見つけるのだよ。それをカンナギと知る。それだけだ。
さらりと加えられた説明に、知盛は小さく「では」とさらなる問いを返す。
「……いずれ、その役が終わる時が来るのだろうか?」
「カンナギは、魂の在り方。終える、終えぬというモノではないが」
言って小さく間をおき、神はくつりと笑みを刻む。
「少なくともコレに関しては、この世界の辿る道がある程度定まり、虚無との応酬さえ終われば、『還して』やることも可能だな」
それはひとつの可能性。選択肢として与えたはずの白龍の逆鱗が砕かれた代わりに、ふと思いついただけだったはずの、もうひとつの道。言葉にするよりも先にあっさりと肯定され、知盛は暫し瞑目する。
「では、その時に」
瞑目し、息を吸い、しかし己が己として、娘が娘としてあるための矜持を知盛は貫く。
「ソレが――が還ることを望んだなら、還してやってほしいと、願う」
「対価のひとつとして、それを望むのか?」
「望む」
では、承ろう。静謐な声がそういらえるのと同時に、ふっと娘の瞳が焦点を失い、ゆらりと倒れこむ。
自分の方へと倒れこむ細い体を慌てて抱きとめ、どうしたのかと目をしばたくよりも先に、娘の上空に揺らめく青灰色の光に気づく。
『生きれば良いさ、ヒトの子よ。我らの思惑なぞ、お前はそも、歯牙にもかける気はなかろう? それで良い。思うように、悔いを抱え、引き返せぬただひとつの道を、這ってでも生きればそれで良い。お前は私のカンナギではないが、私はお前が好ましい』
だから、お前にも加護を与えよう。過ぎるほどに真っ直ぐなヒトの子よ。世界の贄よ。眩き影よ。
笑うその光は龍だった。荘厳な、静謐な、それは人知を超え、世界さえも超えた存在。本来の姿がそれなのだろう。娘のうちにあってぴりぴりと肌を刺激していただけの威圧感は、いまや際限が見えないほどの広がりを示して知盛を圧倒する。
すべて、定義するのは人の業。我らは処断せぬ。我らは赦しもせぬ。ただ見守り、受け入れるのみ。かくな例外、かくな気紛れもあるが、我らは基本、人の世には不干渉であるものよ。だが、いや、だからこそ。
『そして我らに再び示しておくれ。ヒトがヒトとして生きる、その惨めながらも凄艶なる輝きを。我らはそれがいかな道行きであろうとも、最後まで必ずや見守っているよ』
「――身に余る僥倖と、存じます」
それはまさに僥倖。得がたき瑞兆。至高の神々の一柱と讃えられる龍神の言祝ぎに、不自由な姿勢ながらも知盛は精一杯に頭を垂れる。ひしひしと圧し掛かる清廉な、あまりに濃密な気配はしかし、やはり小さく笑う気配を残してあっさりと存在を掻き消す。
絶えることのなかった緊張が急に解けて、腕の中の細い体を支えながらもくらりと襲いくる眩暈に知盛はぎゅっと目を閉じる。眉間に皺を寄せて平衡感覚の乱れをやり過ごし、薄く開いた視界で周囲をうかがえば、夜の気配はすっかり薄まり、天地の境が仄かに明るくなっている。
「………寝るか」
まだ瓶子はおろか、杯にさえ残っている酒だとか、これから寝たらきっと昼まで目を覚ましたくないだろうとか、考慮せねばならないことはそれなりにあったが、すべてがどうでもいいくらいに知盛は疲れていた。そして、言葉とは裏腹に、腕の中で眠る娘の目覚めを確信できていない以上、このまま安穏と眠り込むこともできない自分の性分もわかっていた。
誰にも聞かれていないのをいいことに深く溜め息をつき、自嘲の色濃い笑みを浮かべてみる。目覚めを不安に思い、眠りが果てるまで安堵できないなど、一体自分はどこまで狂わされていくのか。一人の女として、一個の人間として。やはりお前が欲しい。お前自身は無論、お前が俺と共に在るという時間そのものが欲しいのだと、聞いてはいないだろう相手の耳朶に吹き込み、そのまま抱きかかえて腰を上げる。
だるい体を引きずりながら手近な局、すなわちの私室に上がりこみ、用意してあった褥に潜り込む。腕の中で健やかな寝息を繰り返す娘に、とりあえずの違和感は何も覚えない。どうやら、本当にただ眠っていただけのようではある。
「近く、貴船に詣でるとするか」
夢を見ていたような気もするが、しかし、妙にすっきりと胸のつかえが取り払われ、同時に胸に刻みなおした決意は重く揺るぎない。世界だの、時空だの、運命だの、そんなものは知らない。ただ、思うさまに生きるのだと天に坐す神にまで宣したのだから、やはりそう生きるのだと。それだけをひとり胸のうちで反芻し、燻る安息香を吸い込みながら、知盛は静かに眠る娘の気配だけを感じて時間を過ごすのだった。
(変わりはしない、往く道はただひとつ)
(お前を探して還りついたのだから、)
(お前と共に、お前のいる道を、お前と在る未来へと)
ただその道を往く