ただその道を往く
神仏への信仰心が深いとは言いがたい知盛だったが、しかし敬意を払うべき尊き存在を見誤るほどの愚昧であるつもりはない。人知を超え、ヒトの知らざる遠き過去から遠き未来までを見つめ続ける存在を前に、ヒトたる自身を卑下するつもりはないが、最大限の敬意と礼儀を奉じる心積もりはある。
表面上の変化としては姿勢を正して軽く頭を下げただけであっても、やはりヒトならざる存在には、ヒトの目では見えぬものまで見透かせるものらしい。満足げに笑う気配が夜闇を揺らし、耳慣れたはずの知らぬ声が「顔を上げろ」と嘯く。
「そう、硬くならずとも良い。心根正しくば、そうと知れる。この娘にも害はない。器を借りているだけで、当人は眠っている。ゆえ、そう身構えるな」
いつの間に距離を縮めていたのか。移動する気配などまるで感じさせないまま、楽にしていろと続けた声は、知盛の隣から。気づけば、娘は元々座っていた場所にゆったりと腰を降ろし、その深い瞳に小さく愉悦を浮かべて知盛を見やっている。
「お前に、告げるべきことがあってな」
思わず目を見開いて反射的に小さく身を引いた様子を楽しげに笑い、しかし次の瞬間には荘厳な表情を浮かべて神は言い渡す。
「短い話ではない。楽にしていて構わんから、一言たりとて逃さずに聞け」
その言に、従う以外の選択肢は存在しようはずがなかった。
与えられた許可に甘えるというわけではなかったが、長い話との前置きに、知盛がそれなりの聞く姿勢を整えるのを待ってから、娘は厳かに口を開く。
「これは、我らの呼んだカンナギでな」
前置きさえおかず、娘はすべらかに言葉を紡ぎはじめた。
「世界の抱える歪みを正すため、我らはついに贄を必要とする段まで来てしまったのだよ。まこと、まこと愚かしいこととは思うがな。人の情念、あるいは執念か? それらは常に、我らの想定を凌駕し、遠き場所を往くものだ」
言って視線を遠く泳がせ、この世あらざる何かを睥睨しながら神は続ける。
はじめは構わなかった。多少の矛盾を孕みはしたが、揺らぎ、歪んでなお世界は在りつづける。ゆえに、その矛盾は飲み下せる程度のものだった。しかし、矛盾は際限なく広がり続け、ついには世界の根幹がわずかずつ衰弱するほどの虚無へと肥大した。本来ならばただ見守るだけの、神々の中でもさらに遠く高きモノたちが指先を動かさざるをえないほどの、絶対的な虚無へと。
「ヒトは、ひとつの命しか持たぬもの。ゆえに、ひとつの道しか生きられぬ。それがそのモノにとって闇であれ光であれ、道はひとつ。そして、道を定めるのはそのモノよ。そこに、人の世のしがらみ、天命のしがらみ、諸々の枷があったとしても、そのモノ自身」
しかし道はいくつにも分かたれている。選び、定めるのはひとつの道でも、存在しうるのは数多の道。ゆえに世界は広がり続ける。ゆえに世界は矛盾さえも飲み下せる。静かに言い切ったところで、神はふと視点を知盛に据える。
「お前は、それを『見知って』きたな?」
声に色はなかった。しかし、そこにないはずの糾弾を見た気がして、知盛はひくりと肩を揺らす。
知盛の反応に、けれど関心などなかったのか。特に返答を待つこともなく、神はついと顔を庭に向ける。
「お前たちヒトの子にわかるよう喩えるならば、世界とはあの桜木のようなものだ。もっと深く、複雑なものだがな。あの枝葉のひとつひとつが、ひとりひとりのヒトの選んだ道であり、それによって編み上げられた過去であり、それによって紡がれていく未来である」
無論、些細な違いしか生まない道もあろう。しかし、多くの枝葉を抱える枝があるように、大いなる違いを生む道もある。それこそが天命。そういう枝となる可能性を孕むモノたちが、時の潮を生み出し、世界に大いなる変革を齎す。
ヒトは思い違いをしているが、そうと知って我らが天命を与えるのではない。我らでさえ、天命に縛られしモノ。時の潮が混沌へと続く災禍となって世界を飲み込まぬよう、見守るために我らが在る。あるいは潮を鎮めるために、あるいは潮を高めるために、時にそのモノたちと共に潮へと身を投じながら、我らは広がり続ける世界を見守っている。
「しかしな、この世界の少しばかり先の世にて、我らは世界の広がりに逆行する虚無に出遭ったのよ」
我らは見守るもの。世界の原初を生み出しはしたが、その先を紡ぎ続けるはすべてヒトの子。よって、均衡を崩すほどに枝を切り落とすわけにはゆかぬ。ただいたずらに切り落としては、世界は偏り、そしてその画一性ゆえに混沌に堕ちかねん。それは避けねばならぬゆえ。
それは小さな虚無だった。そして、虚無の宿った枝は、数え切れなかった。
「切り落とすわけにはゆかず、そしてその虚無が抱える範囲はさほどのものではなかった。ゆえ、我らはそれを世界の飲み下せる矛盾と判じた。しかし、虚無は際限なく広がっていった」
気づいた時には遅かった。虚無が広がる、その因果を見定めた時には遅かった。
そのすべての虚無は、ヒトでありながら、ヒトならざる力を持っていた。
Fin.