朔夜のうさぎは夢を見る

ただその道を往く

 二人が座しているのは、邸の裏手にあたる廂の一角。知盛の一存で与えられたの局のすぐ外にあたる、階の脇である。
 遠くに飛んでいた視線がふと現実に立ち返り、口元がにたりと歪む。これは何か面白いことを思いついた時の表情だと、わずかに身構えたを振り返り、知盛は杯を持ったまま階を指し示す。
「久方ぶりに、見てやろう」
 神妙な表情を繕いながら瞳の奥と声の底で笑うのだから、知盛に真意を隠すつもりはない。上達のほどを見てやろうと、それはきっと本心。そして、月のない夜空を背景に、珍しい酒の肴を供せというのもきっと本心。身勝手かつ一方的な要求に思うところがなかったわけではないが、つまるところとしても、せっかく上達の手応えをえているのだから、そろそろ師に披露したい気持ちが疼いていたのも確か。呆れと期待、諦めと喜びが混ざり合った珍妙な表情である自覚はあったが、ひとつ頭を下げることでそれさえ笑う主から視線を逸らし、は席を立つ許しを請う。
「刀を部屋に取りに行っても?」
「いや、無手で構わん」
 しかし、与えられたのはそのまま階を降りるという決定事項。顔を上げたに、別に、それでも舞えるだろう、と雄弁に語りかける瞳は、笑いの奥に見定めるような鋭さを孕んでいる。試されているのとは違う、けれど裏切ることは己の矜持の許さない試練。ついと見返し、艶やかに笑い返しては右の膝を引く。
「では、そのように」
 立ち上がり、裾を払い、けれどそこには音を含まない。邪魔になる上掛けを畳む衣擦れの音だけが沈黙を縫い、草履を履いては動きにくいからと、は素足のまま庭に降り立つ。


 視点を遠くに据ええるのは舞の基本。現にありながら幻を見透かすかのように、見据えた幻を現に映し出すかのように、すとんと表情を削ぎ落として娘は静かに構えを取る。無手なれど、その手に握る刀の形も重さもありありと思い描ける立ち姿は、がその仕草にどれほど馴染んだかをはきと知盛に伝える。そして、呼吸をひとつ。張り詰めた空気を巻き込み、纏って翻すように、細い腕が夜闇を縫う。
 いくばくかのたどたどしさはあるものの、本人の申告に偽りはなく、澱むことなく舞は続いた。剣舞としてではなく、本来の舞を、最近のは安芸を通じて重衡に師事していたと聞く。一門の中でも舞の上手として名を馳せる弟は、その分教えを乞うものに対して真摯で厳しい。その厳しさをかいくぐっている成果もあるのだろう。華やぎの足りない夜の庭に添える余興として、の動きは知盛の想像を超える艶やかさであった。
 望外の舞姫に、うっかり酒を飲み損ねて魅入ってしまったと気づいたのは娘が舞い終わり、最後の構えから袖をゆるりと下ろしたからだった。はたと我に返り、仕掛けたつもりが罠にかかった己を嗤いながら、しかし素直に知盛は労いの声をかける。
「よく、動けているじゃないか」
 もっとも、動きの澱みやぎこちなかった部分もしっかりと記憶している。師としての名目を使った以上、義理は果たすかといくつか助言を脳裏に用意した上で言葉を継ごうとして、知盛はようやく娘の様子のおかしさに眉を潜める。


「……どうした?」
 庭に立つ姿は、凛と背筋が伸びていて心地が良い。常日頃から姿勢が良いのは、の美点のひとつだと知盛は素直に評価している。だが、それだけではない清冽さ、あるいはいっそ冷ややかとさえ感じられる空気の鋭さがを取り巻いているのだ。
 いぶかしみ、声をかけても反応はない。その一方でじっと気配を探っていたからこそ、ますますを取り巻く空気に違和を覚える。
 これは何だ、と。しばしの対峙の後に知盛が思い至ったのは、その一点だった。
 この場には知盛としかおらず、見やる先には過ぎるほどに見慣れた娘の立ち姿。だが、決定的に何かが違う。滲む気配、感じる存在感、そして浮かぶ無表情さに覚える威圧感。そのすべてが、知盛に目に映るものを鵜呑みにするのではなく、目に見えない本質を見極めろと告げている。
「ナニモノ、か?」
 殺気こそ篭めてはいないものの、警戒心は戦場に立つ際と微塵の違いもなく。すぐにでも動けるようわずかに姿勢を変えての誰何の声には、軽く俯く娘の口元に浮かぶ冷笑が返された。


 ぴりぴりと肌がざわめき、とっくに杯を手放した指先は無意識に腰を探る。しかし、戦時でもないのに寝酒の席に帯刀しているわけもない。空を掻いた感触に音を立てず舌打ちを零せば、上向けられた娘の目元がゆぅるりと弧を描く。
「――案じずとも、害しはせぬ」
 そして紡がれたのは、果てが見えぬほどの深さと重みを湛えた、しかし娘自身の声。初めて耳にするそれに目を見開き、次いでその内容に表情は剣呑さを増す。
「そういきり立つな。害さぬと、この言葉に偽りはない。我が言の葉に偽りはありえぬ。それは、我らの存在ゆえに決して揺らぐことのない真理よ」
 もはや知盛は、己の目に映る娘を自分の知る娘とはまったく別の存在と断じることにした。遠慮なく殺気をぶつけて睨み据え、事態の推移を冷静に俯瞰する。
「お前は、ナニモノだ?」
 再びの誰何に、娘はふっと憫笑を浮かべる。
「ヒトは、高淤加美神と呼ぶな」
「たかおかみの、かみ」
 玲瓏と転がされた音を半ば反射的になぞりなおし、それから知盛ははっと目を見開く。
「貴船の、祭神であらせられるか……?」
「いかにも」
 ゆったりと頷く所作は、あまりにも深遠。明快な根拠などなく、けれど魂に理解を超えた納得を働きかけるようなその存在に、殺気を解いた知盛は居住まいを正して黙礼を送る。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。