朔夜のうさぎは夢を見る

ただその道を往く

 体調がきちんと戻るまで酒精は控えるべきであると、主付きの女房という特権を存分に活かした一種の横暴さでもって邸中の酒と呼ばれるすべてをどこかしらに片付けていたは、その晩、実にひと月ぶりに夕餉の膳を下げるその足で寝酒の瓶子と杯とを持って現れた。その間、やはり体調が優れないだの出歩くのが面倒だのといった、常と同じ気まぐれとしか映らない、しかし今回ばかりは嫌というほど説得力のある根拠によって誘われる宴席をすべて無視して歩いていた知盛にとって、それは正しくひと月ぶりの酒盃であった。
 仕事を終わらせてから戻ってこいと指示を出し、知盛は葉桜へと移った桜木を肴に廂で天を仰ぐ。繊月は既に沈み、目に映るは満天の星空。月夜に比べて闇は深いが、静寂の深さは同じく心地良い。渡る風は濃い緑の匂いを孕んでおり、夏が近づいていることを強く物語る。
「暖かくはなりましたけど、そのように薄着のままでは、またお風邪を召しますよ」
「なれば、また手厚く看護をしていただくまで……だな」
 静寂を乱すことを厭うような抑えられた足音は、どこか呆れを含んだ声を連れてきた。もっとも、呆れの奥には気遣いが見え隠れする。素直ではない、しかし娘が娘なりのやり方で甘やかしてくれるこの距離が、知盛は決して嫌いではない。
 予想どおり、ゆるりと首を巡らせた先には、呆れと気遣いと、そして得心を混ぜ合わせた瞳が待ち受けていた。小袖と袴に衣を二枚重ねただけの身軽な出で立ちに、抱えているのは知盛の直衣が一枚。
「そんなことにならないよう、まずは上着をお召しください」
 言って距離を縮め、広げられた衣に知盛はおとなしく背を預ける。


 夜半に男が女の許を訪ねる意味を理解させる際、己を例外と定義したのは他ならぬ知盛自身である。だからこそ、せっかく「お前が欲しい」と告げたというのに、常と変わらぬまま無防備に隣に侍るを責めることはできない。
 きっと、は理解していない。二人の関係性は、欲だの情だのという区分を超え、あまりにも深い誓いで定義されている。だから、そこに今さら欲や情を求められても、はそれに思い至らない。一人の人間として受け入れ、寄り添うことを選んだ相手に男女としての関係を求めることが、恐らく並び立たないのだろう。
 存外頭は切れるし、ものわかりも良い。知盛の繰り出す揶揄や皮肉に一歩のひけも取らず渡り合う度胸もある。なのに、は色事の類にはひどく疎くて初心である。
 変な男に寝取られないよう、それこそ徹底的に守り抜いた甲斐があったというべきか、仇になったというべきか。元よりの性分でもあろうが、自身もまたその疎さの原因の一端を担っている自覚のある知盛としては、逸ったか、あるいは策の方向性を間違えたかというのが正直な感想である。
「もう禁酒をするほどでもないとは思いますが、しばらくは量をお控えください。まずは、瓶子を二本までです」
「……つれない、な」
「酒は百薬の長ですが、過ごせば毒にしかなりません」
 不満はさらりと受け流して、瓶子を手にしたは知盛の物騒な内心など素知らぬ様子で腰を下ろす。どうやら当人は表情を隠すことにしているようであり、確かに顔全体で大きな変化を見ることは多くない。しかし、意外と内心の動きが瞳に如実に表れるのは、幼いのか正直なのか。
 ちらと見やった限り、無理や動揺が浮かんでいないあたり、やはりせっかくの告白はこれまでの関係を確認する文言として捉えられたと考えるべきだろう。逃すつもりはないし、今の関係も永劫に破棄するつもりがない。どんな形に落ち着くにせよ、最後まで共にと決め、それは揺るぎない二人の絆。
 どうせ周囲には男女の仲と見なされているし、今さら横槍を入れてくる輩も居るまい。焦らずじっくりおとそうかと、いつか自邸の女房達に宣した己の言葉をなぞってくつりと思い出し笑いを浮かべ、干した杯を隣に差し出す。


 無言で満たされた杯を引き寄せ、一口舐めてから知盛はふと思い出して隣を振り向く。
「剣舞は、習得できたのか?」
「一通り、型をなぞることはできるようになりました」
 目の前で鍛錬をすればどうせ口を出すだけでは飽き足らず、手も出したくなろうからと、このところのは知盛が参内している時間帯を剣の鍛錬にあてている。当初は鍛錬を休んで主の枕辺に控えていたのだが、付きっ切りでなくとも大丈夫なほどに回復して、当人たる知盛が真っ先に鍛錬の再開を指示したのだ。
 口を開けばだるい、面倒だと繰り返すのが常なれど、よほどの理由があるか体調不良でない限り武芸の鍛錬を欠かしたことのない知盛にとって、やむなき理由もないのに鍛錬を欠かすことは許しがたいことである。一日休めば十日分腕が落ちると、真っ向から理屈を説かれたに反論の余地はない。その理屈と努力と天賦の才ゆえの傑出した実力を誇る知盛の言葉には、重すぎるほどの説得力がある。
 もっとも、はいそうですかと引き下がるだけでないあたり、も知盛に慣れたというべきか。
 目に付けば気になりましょうから、では本復するまでは先日教えていただいた剣舞を練習します。型をさらうだけなので、本格的な鍛錬は後よりお願いいたします、と。それは、これまでにも何度か似たような遣り取りを知盛の枕辺で交わし、いくつかの反応とそれに対するさらなる主の行動を鑑みた上でのの選んだ最良の選択肢だった。
 ちょうど見舞いに訪れてその遣り取りを目にしていた重衡が感心しきりで「さすがは兄上付きの女房ですね」と惟盛に漏らし、そこからあっという間に広まってしまった「知盛殿の邸の女房は、腕利きの姫武者でもあるらしい」との噂に、知盛ととが、それぞれこってり安芸にお叱りを受けたのは、つい先日のことである。
 問いかけながら微妙に眉間に皺が寄せられたあたり、どうやら知盛もと同じく、静かながらも気迫のある女房頭の説教を思い出していたらしい。返答に「そうか」と珍しくも上の空で応じてから、暫しの間をおき、ようやく意識を追いつかせる。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。