玲瓏なる思惟
呟きは、誰に聞かせるつもりもない独り言だったのだろう。だが、聞き流すには言葉があまりにも物騒に過ぎた。踏み入ることを躊躇わざるをえないびりびりと張りつめた空気に肺腑を切り裂かれる錯覚に陥りながら、将臣は声を振り絞る。
「過去も未来も失われるって、どういう意味だ?」
影がどうやら有名な神であることは理解できたが、その神と神が纏う懐かしく切ない面影との関係はわからない。どうして影に対して望美があれほど殺気立っているのかも気にかかる。リズヴァーンが畏怖を殺しきれずにいるのは、自身が肌に感じる威圧感からして妥当だと判じられる。
けれど、それらの諸々の疑問よりも何よりも、将臣にとってはその言葉の真意こそが重要だった。
だって、それはもしかしたら、あれほどの切なさと愛しさに満ち溢れた苦悶の時間を根本から否定されるということ。諦めたことを後悔しろと言ってやりたかった時間が否定されることであり、それでも確かに、彼らが全身全霊をかけて成就させた祈りが、踏みにじられるということ。
「それは、俺達の築いたすべてが、なかったことにされるってことなのか?」
そんなことを認められるはずがない。だというのに、一層の憐憫と慈悲に満たされた、しかし間違いなくあの、狂乱の底に身を投げたそれと同じ瞳が、悲しみに覆われていくのを読みとってしまう。
「あるいは、そういうことだろうね」
哀悼の意に染まった声色は、絶望的な肯定を過たず紡ぎあげる。
何かを悼むように一端閉ざされた瞼の向こうからのぞいたのは、戦場で見た凛然たる殺意よりもなお深い、玲瓏なる思惟。
「渡せ。忘れるな、お前達は神ではない」
重ねられる言葉にリズヴァーンの纏う気配は重く沈み、望美の纏う殺気はもはや臨界点をも突破する勢い。だが、影はそんな周囲の悲喜こもごもにはまるで関心を示そうともしない。
「神の与える力の器となることは天命でも、神の力そのものを握ることは、世界の犯した過ち」
「なん、で……? だって、だってそれは、そもそも知盛が――」
「それさえも世界の選んだひとつの道だった。そして、その世界の抱擁を憎んだお前は、広がるすべての世界を滅ぼしかけたのだよ」
神の盲愛と妄信によって産み落とされた、哀れなる虚無よ。
悲鳴じみた慟哭をただ静かに遮り、瞬きひとつで影はその瞳に憐憫を宿す。
事態の展開を飲み込めていないのは、どうやら事の中枢にいるらしい望美とリズヴァーン、そして影を除けば誰もが同様だろうと将臣はぼんやり思う。だが、その予想は微妙に外れていたらしい。
「お前ばかりを責めるつもりはない」
憤怒のあまり言葉が出てこないのだろう。低く呻いて表情を歪める望美と顔色を失ったリズヴァーンを眇めた瞳で見やり、影は神妙な表情で己を見つめている白龍へと視線を移す。
「お前は我らとは違う。人によって産み出されるとは、そういうことだと。気づけなかった、我らの落ち度でもある」
「でも、悪いのは私。だからお願い、神子を責めないで」
「それとこれとは話が別だ。私は、お前にも贖いを求めるのだから」
言ってもはや待つつもりはないとばかりに無造作に指が何かを差し招くように動くのと、望美とリズヴァーンの懐から光が飛び出すのは同時。
「やめてッ!」
「神子!!」
反射的に光を追おうとした望美を、リズヴァーンが寸でのところで食い止める。
「持っていても使えないと、そう言ったろうに」
剣呑な光を瞳に浮かべ、影は光を摘まんだ指先を目線の高さへと持ち上げる。
「まあ、ないよりも少しはマシか」
これで、少しは疲弊しきった世界が潤えばいいのだけれど。
「やめてぇッ!!」
涙交じりの懇願は、硬質で澄んだ音に掻き消される。響く高い音と同時に、影は指先を無造作に振り払って光の破片を宙へと溶かしていく。
「あ、ああ……ッ」
「お前達にとって、これは楔ではないのだろう? なれば、必要なかろうが」
さらりと言って肩を竦め、その場に崩れ落ちて頭を抱えている望美を一瞥してから、影はただ呆然と立ち尽くしている白龍へと向き直る。
Fin.
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