玲瓏なる思惟
恐らく鍛錬をしていたのだろう。庭に立つのは未だに敵愾心を剥き出しにしたままの望美と、どことない畏怖に身を強張らせているリズヴァーン。地に伏したところを庇われていたらしい白龍はとっさに傍に寄っていた弁慶の手を借りて身を起こし、その視線の先に、影。
無造作な立ち姿だった。どこかけだるげであり、どこまでも自然体。だというのに、圧倒的な存在感が周囲の何もかもを押さえつけている。発される深い神気に人ならざる存在をじりじりと灼かれるのを感じながら、敦盛は再び戻された藍の宝玉に縫いとめられる。
そして、そしてそれはいかな皮肉。いかな思惑によって。無造作に髪を掻き上げる所作は光を纏い、藍の瞳は深更のそれへ、水の色を梳き流したような髪は夜闇を思わせるそれへと。
「お前が八葉などという、そんな厄介な存在でないのなら、お前が還ることを決して許しはしなかったのだろうけれど」
垣間見ただけの、けれど確かに見知った懐かしい双眸が細められ、哀れみと蔑みを同じほど混ぜ合わせてひたりと瞳の奥に据えられる。たじろぐ将臣の気配を隣に感じながら、敦盛は遠い従兄が不器用に恋うていたあまりに懐かしい幻想に、視界が潤むのを自覚する。
「……難儀なものだね。異なれど同じなるアレもまた同じく厭うたことだというのに、世界のしがらみゆえに、阻むことさえ阻まれた」
嘯く声は静謐で、底知れぬ諦観に濡れていた。音は同じでもまるで質の違った声が、その瞬間だけ、敦盛や将臣の知るそれと重なる。ふぅと溜め息を落とし、残酷な幻影を纏った神は物憂げに視線を敦盛から引き剥がす。
「児戯はしまいだよ、小娘。我が声を、世界の定めと知れ」
引き絞られた瞳孔が、つと殺気にも似た威圧感を放つ。口調が変わらない分、告げられた言葉は重かった。
ごくりと喉を鳴らしたのは、誰だったのか。それぞれが多かれ少なかれ顔色を悪くする中、群を抜いて蒼褪めていた白龍がようやくといった風情で口を開く。
「どうして、いるの?」
「なぜ、と? なぜと、お前が問うのか?」
掠れた声は震え、ひび割れて憐れを誘う。だが、対する影は声に一層の鋭さを孕ませ、問いを繰り返してから低く哄笑をはじめる。
「くくっ、はははっ!」
「答えて、たかお――」
「呼ぶな」
堪らないとばかりに身を折り、眦に涙さえ浮かべて嗤い続けていた影は、被せられた声を鋭く遮り、じろりと鋭く睨み据える。
「私は、お前に名を許した覚えはないよ」
「でも……」
「わきまえることさえ忘れたのか? 所詮、“人に創られた神”なぞ、その程度のものか」
冷厳に言い放たれ、ついに白龍は声を失って俯いてしまう。小刻みに震える肩を痛ましげに見やり、険を孕む声を上げたのは白龍の神子。
「あなたが誰なのかは知らないけれど、そんな言い方はないでしょう!?」
「黙れ」
恐れを知らぬ真っ直ぐな声は清々しかったが、ぴしゃりとはねつける声はなお一層鋭かった。びりびりと大気が震え、濃密な気配が場に居合わせる全員の肩を重く押さえつける。
「だが、そう、そうだね。私がナニモノかさえわからないのでは、話が進まぬのも道理か」
それこそ顔色を失った一同には微塵の気遣いさえなく、ようやく思い至ったとばかりに影は呟く。そして、実に嫣然と口の端に笑みを刻んだ。そのまま勿体をつけることさえなくあっさりと開かれた唇は、名、そのものの音でさえ力を持つのだという世界の理をまざまざと表す。
「人は、私をタカオカミノカミ、あるいはクラオカミノカミと呼ぶ」
「……貴船の、祭神」
「そういうお前は熊野の神職だね」
くつくつと笑いを零し、正確に言葉を返してきたヒノエへと影は凄艶な流し目をくれる。
「厄介なことをしてくれたものだ。かほどに手駒を揃えておいて、さらには我らが愛し子にも手を出そうなど、強欲に過ぎる」
紡ぎ出される言葉はこの上ない侮蔑に濡れているというのに、その姿は美醜を超えた絶対的な存在感によってのみ構成され、ただひたすらに荘厳。言いながら視線を向けられた望美がびくりと身を震わせるのを冷笑ひとつで切り捨て、神は続ける。
「ソレを渡せ」
差し伸べられて返された掌が天を向き、返答を欲さない声が命じる。きょとんと目を見開き、しかしすぐさま顔色を失った望美をちらとも歯牙にかける様子はなく、神は淡々と言葉を継ぐ。
「たとえお前達が望んだとしても、これまでお前達が頼りにしていたその力は揮えない」
この世界は、過去を喪った。そして未来さえも朽ちるだけ。それが、あの子らを解き放つための、唯一の道だったから。そっと瞬いた睫毛の向こうで、蒼黒が憐憫に沈む。
Fin.
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