朔夜のうさぎは夢を見る

玲瓏なる思惟

 今日も今日とて傍目にはのんびりと、当人としてはとてつもなく一瞬一瞬を愛おしみながら時間を送っていた将臣の傍らには、笛を構えた敦盛。目を覚ましてこの果てなど見えないほどに晴れ渡った早春の空を仰いだ瞬間、今日は彼の笛を聞きたいと思ったのだ。
「相変わらず、ウマいなぁ」
 そっと最後の一音の余韻を邪魔しないように構えを解いた姿を横目に、将臣はのびのびと感想を紡ぐ。
「ご満足いただけたなら、とても嬉しい」
「大満足! やっぱ、笛はお前が最高だな」
 振り返ってにっこり笑うその表情に、先の熊野で垣間見たどうしようもなく悲痛な影は見えない。
 消えたわけでも、癒えたわけでもないだろうが、将臣は実にあっという間にこうして自分達に内心の痛みを察させないほどの強さを取り戻した。その彼が今日の空を見て、何を思って自分の笛を所望したのかを察せないほど、敦盛は自分が一門への愛が薄かったつもりはない。
 この人の奥底に今なお潜んでいるだろう痛みの由縁は、誰よりも精確かつ遠慮容赦なく彼の痛みを抉り出せた人。自分では届かない。そのことを悲しいほどに理解している敦盛は、喪われた影を胸の奥でそっと悼み、惜しみ、懐かしみ、それから素知らぬふりで「ありがとうございます」とだけいらえる。


 後で重衡呼んできて、あわせて舞ってもらおうぜ、と将臣は笑った。そんで、今夜はお前も一緒に飲むんだぞ。いいか、還内府命令だからな。からからと明るく笑う将臣の表情が本当に眩しくて、ただ小刻みに震える指先でぎゅっと笛を握りしめながら、敦盛は穏やかに肯定を返し続ける。
 致し方のないこと。そして、きっとそうあるべきだろう。だが、本当に惜しい。この人とももうじき永劫の別れを迎えるという現実が、本当に悲しい。永訣を互いに理解して、その上で時間を惜しめることは、ありがたいけれども辛い。
 確かにこれは今生の別れだけれども、将臣の命が損なわれるわけではない。それでなおこれほどに辛いのだ。この人は、あの西の海で、いったいどれほどの思いを篭めて一門の皆と時間を過ごしたのだろう。
 終わりの見えない思索は、けれどこのかけがえのない時間に添えるべき要素ではない。そう判じて敦盛もまた意識して何気ない日常を紡ぐ努力をしていたというのに、淡雪のような時間は思いがけず打ち崩される。
 叫び声が響き渡る。声の主はすぐに察せたが、何があったかはわからない。しかし、その先の行動はもはや条件反射でさえあった。役目を終えたのだろうに消えずに残されている龍の宝玉から、背筋が凍りつくほどの寒気が流れ込んでくる。
 宝玉を通じて知る異変は、八葉か神子の身に降りかかった異変。しかも、生半なものではないほどの。いったい何があったのかと、目を見合わせた時には敦盛も将臣も駆け出している。そうして誰からともなく駆け付けた先で展開されていたのは、予想外の遥か上空を行く光景だった。


 憎悪に染まった新緑の瞳が睨み据え、その背に白き龍神を庇って切っ先を向けるのは蒼き人影。感慨のない藍色の双眸は底知れない透明さを湛えて、集う面々をただ冷厳に、無感動に見やる。
「望美! それに、先生!?」
 どうなってんだ、と、叫んだ将臣の言葉こそは誰もの疑問を代弁するものだったろう。
 蒼い影の正体も気にかかったが、今にも飛びかかりそうな勢いの望美を背後から押さえつけているリズヴァーンの姿の方が一同にとっては衝撃的だった。誰よりもひたむきに神子を守り、導くことに誇りを持っていることが明白な地の玄武が、よりにもよって神子の意思を阻むような行動をとっている。
 それは、これまでに見たこともない構図。前後の顛末がわからないとはいえ、こんな展開は予想外にも程がある。
「……かしましい」
 そして、放たれた疑問に答えたのは、疑問を紐解く言葉ではなく実に端的な感想。続いて場に響いたのは、間が良いのか悪いのか、どうやらこの不可思議に居合わせてしまったらしい平泉が総領の珍しくも上ずった声。
「いずこの神で、あらせられる?」
「ああ、少しは敏いのもいるのか」
 ついと流れた凄艶な流し目が、そっと細められることで艶笑を刻む。もっとも、と。そのまま将臣の隣で蒼白になって身じろぎさえできなくなっている敦盛を見やって紡がれる言葉は、無色でありながらもどことない慈愛と憐憫に染まっていて。
「敏すぎるのも、問題のようだがね」
「あなた、は、」
「恐れる必要はない。そして、お前の感じるとおりだよ」
 喘ぐように泰衡と同じ問いを差し向けた敦盛に、ようやく与えられたのは曖昧にぼかされた真理。
「人の情と欲、そして世界のしがらみのかなしき申し子」
 謡うように紡がれた言葉は、仄かな慈愛と憐憫を拭い去ったひどく遠い視線と共に、なぜか白龍へと流される。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。