玲瓏なる思惟
壇ノ浦から熊野に身を寄せ、九郎と弁慶の伝手から平泉を頼って身を寄せた。深く雪に閉ざされた北の地では、あまりにも信じがたい可能性に遭遇した。もう喪われてしまったと諦めていた命が繋がれていたことを知り、彼の身に降りかかった理不尽を知った。
紆余曲折は様々に。けれど、結末は将臣の知る史実よりもほんの少しだけ優しいそれへと収束する。
本当に、これでもう本当に最後だ。もう、自分がこの世界でやるべきことは終えただろう。だから、往こうと思った。帰るのではなく、戻るのではなく、いこうと。
血に染んでしまったこの両手は、もう元には戻せない。その現実を嘆いたり恨んだりするつもりはなかったが、わずかに惜しみはした。それから、申し訳ないとも。
両親は微塵も思ってはいないはずだ。致し方ない事由があったとはいえ、まさか息子が誰かの命を手にかけて、策謀のためならと仲間の命を餌にすることさえやってのけたなどと。だから、本当は将臣は元の世界に帰るつもりはなかった。もう戻ってはいけないと思ったのだ。この罪は、負った世界でこそ償うべき。こんな自分を、両親の前に曝すことはできない。
しかし、いつでも状況を怜悧に俯瞰し、最良の道を模索し続けていた習慣が弾き出したのは、これ以上自分がこの世界にいてはならないという結論だった。
還内府は、逝かねばならない。
平家の終焉を疑わせる要素を残してはならないのだ。そんな余計なことをして、源氏の中にいつまでも平家を執拗に追いかけねばと考えさせる可能性を残してはならない。
女子供が落ち延びたらしいとの噂は、さほどの重みを持ちはしない。言仁がその中にあったことで多少は燻ぶるきらいもあったようだが、後白河院はさすがは稀代の大狸にして辣腕の施政者。あてもなく探すなどという手間は選ばず、死んだものとして安徳帝を廃位させ、新たな帝を立てたと風の噂に聞いた。
後白河院が言仁から興味を失えば、源氏勢が執着する理由も消える。あとは戦力の筆頭である男どもが完全に消えれば、源氏から平家への興味を完全に失せさせることができよう。
本三位中将、平重衡は、生田の森で源氏の手に落ち、その後処刑されたと噂されている。
新中納言、平知盛は、赤間関で源氏の神子一行との戦いに敗れ、入水したことが広く知られている。
能登守、平教経も薩摩守、平忠度も。壇ノ浦まで生き延びた平家の名だたる将たちは皆、入水するか討ち取られるかでその命を散らしている。残る反逆の可能性にして御旗印は、還内府ただ一人。逆に言えば、その還内府さえこの世界から消えてしまえば、すべての片がつけられるのだ。
時空の扉を開くのには、白龍自身の力が戻ることと、それにふさわしい気脈の巡りのタイミングを待たねばならないらしい。異国の邪神が祓われることで力を取り戻した白き龍神は、世界を渡りたいと告げた将臣に「わかった」とだけ答えた。理由も聞かず、思いも聞かず、「次の十六夜月には、開けるよ」と。
リミットが定まれば、それまでにやることもおのずと定められる。残された時間でこの束の間の夢のような、けれど夢と思って拭い去るにはあまりにも濃密で切実な日々を惜しめばいい。別れを惜しみ、互いの未来のためにわだかまりが残らないよう、思い残すことのないように精一杯に過ごせばいい。
当然のように、将臣は譲にも扉が開く日時のことを伝えた。渡るか否かを問いはしなかったし、強要するつもりはなかった。だが、渡るならば自分と同じように残された時間を惜しみたいだろうと思ったからだ。
その思いは、また当然ながら等しく幼馴染の少女へも向けられる。もう、この時間を過ごす前の自分達には戻れない。その関係に戻るには、自分達は互いの手で互いの手の中の大切なものを、あまりにも深く傷つけ過ぎた。それでも、その現実を呑みこみ、歯を食いしばり、互いに同罪だと薄く冷笑して当たり障りのないよう振る舞えるほどには、将臣は自分がその身に時間を降り積もらせたこともわかっていた。
Fin.
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