空知らぬ雨が君に降る 〜参〜
「――駄目だ」
梢のざわめく音が、不意に戻ってきた。そんな音に気づくこともできないほど、彼女の纏う空気に呑まれていたのだと、認めることに否やはない。
「駄目ッスよ、そんなの。そんなことしたら、咎を負っちまうんでしょう?」
「負うたとて、今さら。罪のひとふたつ、増えたところで別に厭いはしません」
「俺がおおいに厭うんで」
ふっと苦笑を滲ませて、猩影は小さく首を振った。
「刃を持つものは、刃によって殺される。力あるものは、その力に怯える思いを忘れては自滅する。――兄貴の持論だっけ」
「驕れるものは久しからず。ただ春の夜の、夢のごとし……と」
自嘲するように呟かれた声には、朗々と古典を吟じる声が続く。
「なら、きっとそういうことだった。それだけのこと、だ」
だから何をする必要もないといびつに唇を歪めて、猩影はもう一度頭を横に振る。
「頼みます。お二人だけは、俺の中の幻想から、外れないでいてください」
「幻想?」
泣きそうなくらいに頼りない声での懇願に、ふと女が殺気を納めて首を傾げる。
「ええ、幻想です。気高く、何ものにも屈さず、決して穢れない永劫の孤高」
そんなもの、あるはずがないのに。けれど、夢見たくなる。盲信したくなる。そうさせるだけの力が、彼らには、確かに備わっている。
「いいんです。納得しているかと言われれば頷けないけど、それなりに、飲み込めたつもりッスから」
「……わたし達は、一度約を交わせば、決して違えることはできません。それは、忘れていませんね?」
「ああ」
厳かに、問われた覚悟に猩影は迷わず顎を引く。
「相応の理由がない限り、その方に手出しをしないとの約束を、望みます」
「交わしましょう。破られたその暁には、それ相応の応報と共に」
それを見て、女は表情を歪めてため息をこぼしながら契約の文言を紡ぎ、男はやわらに慈愛の滲んだ笑みを浮かべる。
「見上げた心意気だな。我らの心配は、すべて杞憂だったというわけだ」
縁側から地面に降り立ち、猩影に並んで、男は穏やかに笑ってなんとも複雑そうな女をちらと見やる。
「お父君も、さぞや誇らしかろう」
それから、深く深く、紡がれた言葉。哀しげに切なげに、微笑む表情があまりにも美しくて、はからずも間近で見上げることとなったリクオはひゅっと音を立てて息を呑む。
「偉大な魂が、またひとつ、輪廻の廻りへと還された」
「解脱には無縁だろうからな、あれだけ欲深くっちゃ」
「良いことではないか。欲がなくば、生きるのが辛い」
解脱がすべてというわけではない。あまりに解脱する魂が多過ぎれば、この世から命の消え去る日は遠からぬだろう。それは、いかにもつまらなく、寂しいことだ。
複雑に表情を歪めて混ぜ返した猩影に、男はおかしげに笑った。
「狒々殿の執着の、最たる先はお前の幸いにあった。どんな人間よりも欲深く、どんな妖よりも慈悲深く、生き物として、限りなく崇高な在り様……それを、どうか受け継ぎ、次代に伝えてくださるよう」
優しくて、深くて、けれど切ない声だった。痛みを堪えるような、擦り切れそうにかなしい聲。
「心より、ご冥福をお祈り申し上げる」
振り絞るように告げて、男と女は猩影に向かって深々と腰を折った。それは、リクオをはじめとした誰もが、この騒ぎの中で後回しにするうちにすっかり送るのを忘れていた、遺されたものに対して真っ先に示さねばならない、最低限の礼節であった。
Fin.