空知らぬ雨が君に降る 〜弐〜
声は艶やかで、きっと葉桜よりも舞い散る花吹雪が似合いだろう。しかし、梢越しに降り注ぐ月明かりもなかなかに乙なもの。冷え切った殺気に誰も身動きができないというのに、リクオはいっそ落ち着き払ってすべてを受け入れている。
「とはいえ、狸どもは既に四国の山の中。追うにはなかなかに骨が折れます。ゆえ、アレらは後に回して、まずはあなたの首をもらいにまいりました」
軽々しく偽りを紡ぐなら、その口がある意味などありますまい。
ゆるりと首筋を撫でさする指先は、細くひんやりと冷たい。告げられた言葉と、目に映る情景と、耳に届く側近達の悲鳴と。すべてがぼんやりと夢のように混じり合う中に、ふと飛び込んできたのは鋭い制止の声。
「姐さん、何やってンすか!?」
声につられて首を巡らせたのは、リクオも女も同じだった。そして目に映るのは、縁側に鈴なりになっている大小様々の妖怪どもと、それらの行く手に境界を引く、蒼白い焔。その一線を越えることのできずにいる、祖父をはじめとした面々の苦り切った表情。
「あら、もう少しお待ちなさいな。いま、このうつけ殿の首を狩ってしまいますから」
それとも、首は繋げたままがいいかしら? 顔立ちだけは、なかなかに美しいですものね。
くすくすと笑って女が応じる先には、連れ立っていた男と、その男の引いたであろう境界を超えることを許されたらしい、長身の青年。
「……放してくれ」
状況が掴めていないのだろう。困惑もあらわに周囲を見回し、男を見やり、女を見やり。殺気を迸らせている面々を見て、青年は苦く言葉を絞り出す。
「姐さん、頼む。その人を、放してくれ」
もう一度、先ほどよりもゆっくり言葉を切りながらの要請に、女は表情の全てを削ぎ落として静かに向かい合う。
「それがあなたの願いであるなら、わたしは叶えたいと思います」
「ああ、俺の願いだ」
「偽りはありません?」
「そんなの、俺が隠してたって、どうせあんたらは見抜いちまうんだろ?」
「ええ、だから問うているのです。本当に、それでいいのかと」
声は実に冷え冷えとしていて、青年の言葉には少なからず思うところがあるのだということが場に居合わせる誰もの胸に重く沈む。
「いいんだ。俺は、奴良組を潰したいわけじゃねぇ。……そんなことしたら、親父に殴られる」
呻くように絞り出された声は弱々しく、きつく握り締められた拳は、小刻みに震えていた。ともすれば反意と糾弾されても仕方ないだろう言い様に、けれど誰も文句など言わない。
彼の言葉ならば聞くというこの物騒極まりない闖入者にすべてを握られているこの状況では言えないだろう。彼の境遇を思っても、言えないだろう。
本心と裏腹な言い分であることはあまりに明らかだったが、女は小さく瞬きをしたきりで「そうですね」と頷くと、あまりにあっさりと、馬乗りになっていたリクオの上から退いた。
「では、いかがいたします? ご存知だとは思いますけど、わたし達は、あなたの願いになら応じる用意があります。この子供を殺すのが嫌なら、そこなご老体にしておきます?
それとも、そちらのお嬢さんを手にかければ、少しは胸がすくかしら」
あくまで優雅に微笑みながら、女の言葉は物騒極まりない。
「ねえ、猩影殿。わたしはね、許せないの。あなたの心を乱すだけ乱して、己の道こそがすべてとばかりに進むこの子供に、腹が立ってしょうがないのよ」
地面に転がされたまま、上半身は起こしたものの、その場から動くことの許されていないリクオは、歌うように紡がれる言葉に、背筋を震わせる。彼女はきっと、猩影がひとことそう願えば、躊躇いなくそれを実行するだろう。そして、それを阻む術など、恐らく自分達にありはしないと、確信できている。
「刃を持つものは、刃によって殺される。だから、お父君が辿った道もまた正道。わたしはそれは否定しません。けれど同じように、あの狸もまた刃によって殺されてしかるべきなの。なぜ、それを否定されねばならないのかしら?」
静かに、静かに。紡がれる言葉、滲み出す思い、無色透明の瞳。そのすべてに、リクオは息を呑んだ。彼女の全ては矛盾に満ちており、そのくせ整合性が取れているようにしか見えない。その二律背反が、底の見えない畏怖を生む。
「ねえ、おかしな話だとは思いません? なぜ、かくも血と死の気配を纏うくせに、そんな綺麗事を言いたがるのかしら? 己の衝動は血で洗うくせに、それ以外は認めないの?」
ふふっと笑って、女はふいに腕を真横になぐ。
「その矛盾を力でねじ伏せて理とするのなら、さらに力でねじ伏せてしまえば、わたし達が理。そうでしょう?」
先ほどまでは確かに無手だったのに、いつのまにかその細指は、美しい小振りの刀を携えていた。装飾などまるでないのに、無骨さではなく優美さを感じさせる、不可思議な。
「さあ、願ってくださいな。どうします? この邸のすべての首をあなたの前に並べることも、わたし達には適うこと。ご存知でしょう?」
美しき狂気。そうとしか表現のしようがなかった。陶然と浮かべられた笑みだけが、場の空気をかき乱す。
Fin.