朔夜のうさぎは夢を見る

空知らぬ雨が君に降る 〜壱〜

「なにごとだ!?」
 不本意ながらも一日中布団から出ることを許されなかったため、夜が更けてもちっとも眠気が湧かないまま、リクオは縁側で青々と茂る葉桜を見ていた。本当は酒など嗜みたかったのだが、過保護で厳格な目付役に早々に先手を打たれて今に至る。
 思うことは山のようにあり、物思いに耽るには、夜の静けさは毒のようだった。
 多くの命が喪われた。懐かしい存在が喪われて、懐かしくて新しい仲間が帰ってきた。
 覚悟は決めていたし、間違った選択をしたとは思っていない。ただ、思い至ってしまった。己の選択をこそ絶対としてついてきてくれるものには、それでいい。けれど、少なくとも今回の一連の件で誰よりもリクオの最後の選択に忸怩たる思いを抱くだろう青年をリクオはろくに知らず、翻ってそれは、彼もまたリクオをろくに知らないということに。
 よく知りもしない相手に、血を吐くようにして振り絞っていた決意をあっさりと覆された彼は、今ごろ何を思っているだろう。


 謝りに行くのは少し違う気がする。かといって、声をかけずにいるには思うところがありすぎるし、なんと声をかければいいのかもわからない。
 リクオもまた、幼い日に父親を殺されている。その日のことは、あまりよく覚えていない。ただ、彼のように、憎しみに駆られなかったことだけは確かだった。あの頃はまだ、複雑な感情を衝動的に抱くには、あまりに幼かったのかもしれない。その後の日々において、必死に面倒を見てくれた周囲の面々の努力の賜物かもしれない。いずれにせよ、過ぎてしまったことだ。リクオにはもう、思い出せない。
 そんな、取り留めのない思考に沈むだけの、ただ静かな時間をふいに打ち崩すものがあったのだから、声を荒げたことも責められたくはない。
 音がしたわけではなかった。ただ、あまりに圧倒的な存在感が、屋敷の境界に踏み入ってきたのだ。無音にして高らかに、悠然と。
「リクオ様! 侵入者が――」
「お前が、そうか」
 腰を上げて得物を手に、騒ぎのもとへと駆け出そうとしたところで、リクオは今日一日を布団で過ごすよう強要した目付役と、招いた覚えのない客に遭遇する。
「若い、な」
「若気の至りは見逃せなどと、申されても聞き入れられませんよ」
 くつりとわらったのは男の声。そこにかぶせた不機嫌な言葉は、女の声。声がするまで気づきもしなかったのだろう。反射的に振り返りながらリクオをかばうようにして距離をとった雪女の表情は、あからさまに固い。
「アンタら、何者だい?」
 油断なく腰を上げ、リクオは雪女を背中に引き寄せながら問うた。
「ウチのシマのもんじゃねぇな」
「さて、それ以前に確認すべきことのあるやなしや」
 気配を強めて相手を威嚇しているというのに、対峙する二人にはまるで堪えた様子はない。わずか楽しげに口元を緩める男と、あからさまに不機嫌そうな女と。


 様子がおかしいことに気づいたのだろう。邸のそこかしこから気配が集まってくるのに、リクオはまったく強気になれないし、雪女は完全に怯えている。
「若!」
「何かありましたかい!?」
 呼んでまず飛び出してきたのは黒田坊と青田坊。奴良組きっての武闘派の二人の登場は、華々しくも隙がない。だというのに、侵入者の方がいっそう容赦がなかった。
 リクオがそれに気づいたのは、黒田坊の怒鳴る声と、青田坊の悲鳴。それに続く雪女の呼ぶ声あったからだ。
 あまりにも鮮やかに、あまりにも優雅に。向けられた殺気はいっそ美しく、妖しくリクオの意識を蝕む。
「わたしは、約束を破ることだけは、何よりも我慢がなりません」
 気づけば葉桜越しに夜空を仰いで、リクオは女の細腕によって地面に縫いつけられていた。
「一度は引き下がりました。確かに、わたし達には果たすべき役目があり、それを投げ出すことは赦されませんから」
 見下ろしてくる双眸は、深い深い蒼黒。例えば、真冬の夜空のような、しんと鋭く張り詰めた。
「まして、ご自身の手で仇を討つのだと、そう決意されたお姿に、否となど言えましょうか」
 だから信じた。だから任せた。だから引き下がった。誰よりも悔しいのは、悲しいのは、誰よりも近い彼だから。自分たちの悲しみが浅いとは言わせない。けれど、それを彼の悲しみと比べようとは、思うはずもない。
「それでお心が晴れるならと、わたし達は引き下がりました。けれど、戻ってみれば、なんですかこれは」
 仇は討てず、心は晴れず。おまけにそれは、あなたの独断によるものなのだとか。そんな半端な理由で、納得がいくとでもお思いか。
「単なる我らの思い込みであったなら、悔しくとも引き下がりましょう。けれど、違う。あなたは約を交わし、それを中途に破った」
 言って冷え冷えとした眼差しでリクオを見下ろし、女はいっそうっとりと微笑む。
「わたしは、許さない」

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。