朔夜のうさぎは夢を見る

にじいろの未来

 両家において最たると呼べるだろう許可を取りつけた後、事の運びはひどく早かった。個人的な、非正規な訪問。監督者として知盛が同道する許可をどうやって藤原家からもぎ取ったのかはわからなかったが、どうやら、総領である泰衡との会談という名目も用立てたらしい。迎えに行く、という簡素な伝令を与えられた翌日、希は知盛と共に、見覚えのありすぎる美しき黒馬の背に揺られていた。
「ようこそおいでくださった、知盛殿」
 正門をくぐり、出迎えの女房に先導されて向かった先には、漆黒を纏う美しい青年が坐している。
「邪魔をする」
「そちらが噂の?」
「正規のご紹介は、また後日に改めて」
 慣れた様子で用立てられていた円座に腰を降ろし、知盛はその斜め後ろに膝をついた希を軽く振り返る。
「今は、名を希という。平家に正式に猶子として迎えてより、鎌倉殿を後見人として元服の儀を行う予定だ」
 簡単に述べてから「ご挨拶を」と促され、希は丁寧に床に指をついた。
「お初にお目にかかります。希と申します」
「ご丁寧に痛み入る。奥州藤原家、藤原泰衡と申す。以後、よしなに」
 応えて軽く会釈を送り、泰衡は小さく口元に笑みを刷いた。
「なんでも、あまりにじれったい知盛殿に業を煮やして、胡蝶殿を慰めにいらしたのだとか? 姫は、義理とはいえ我が妹君。最近はやや塞ぎこんでいる様子だったゆえ、ぜひとも元気づけてさしあげてほしい」
「え?」
「泰衡殿」
 思いがけない歓迎の言葉に希が驚いて床に落としていた視線を跳ね上げれば、どこか苦り切った様子の声で知盛が泰衡を呼ぶ。
「なんだ、ご不満でもおありか? 申し上げたはずだ、せいぜい、舅の扱いにご苦労なされよと」
「御身は舅ではあるまい」
「似たようなものであろう。舅も、女房も、義理の兄弟も」
 くつくつと喉を鳴らし、泰衡はひとつ、手を叩いて控えているだろう女房を呼ぶ。
「お呼びでしょうか?」
「こちらの御曹司を、我が妹姫の許にご案内するよう」
「かしこまりまして」
 希はまだ話についていききれていないのだが、どうやらここで追い出されてしまうらしい。戸惑いながらも振り仰いだ知盛は、視線を寄越さないまま手の動作だけで「行ってこい」と指し示す。
「では、御前を失礼いたします」
「どうぞ、ごゆるりと」
 もう一度頭を下げ、場を辞す挨拶を告げれば、やわらに微笑む漆黒の声が背中を押してくれた。


 先導する女房に連れられて、案内された先は趣味の良い庭に面した曹司だった。
「失礼いたします。泰衡様に申しつけられまして、お客様をお連れいたしました」
「泰衡殿の?」
 半分ほど絡げられた御簾の奥、広がる衣の裾は見えるが、まだ姿は見えない。けれど、聞こえた声は相変らずやわらかく、希は体側でくっと拳を握りしめる。
「どうぞ、お通しくださいな」
 するすると衣擦れの音が響き、入室の許可が返される。それを確認してひとつ頭を下げると、先導してくれた女房が体をずらし、希に「どうぞ」と場を譲ってくれる。
「控えておりますので、ご用の際には及びください」
 本来なら、主人の手の届くところに常に控えているのが女房としての在り方。けれど、あらかじめ泰衡に言い含められていたのか、曹司の主の希望なのか、女房は特に違和感を見せないままするりと立ち去っていく。その背中をぼんやりと見送っていた希は、曹司の中からかけられた「どうされました?」の声にはっと我に返り、慌てて御簾をくぐった。
 そういえば、御簾をくぐる前に自分の言葉で「失礼します」と告げるべきだった。そんなことをぼんやりと考えながら、希は目を大きく見開いている懐かしい面影を、じっと見つめ返す。
「……希殿?」
「はい」
「希殿が、お客様なのですか?」
「はい。泰衡様に、わがままを聞いていただきました」
 本当は、もっとたくさんの人にわがままを聞いてもらって、やっと成り立った訪問だ。そう思えば、いつもいつも、自分は誰かに助けられていると希はなんだか不思議な気持ちになる。誰かの手を借りねばならない自分が情けない、というのとは違う。こうして誰かに助けられて生きているという縁の繋がりが、奇蹟のように思えるのだ。


 しばらく言葉もないまま見つめ合っていた二人だったが、はたと思い出したようにが「どうぞ、お座りになってください」と頬をわずかに染めながら円座を勧めてくれる。どうやら、先ほどの衣擦れは、彼女が手ずからこれを用意している音だったらしい。
「お元気でいらっしゃいますか?」
「はい」
「文で少しは遣り取りをしていますけれど、こうして顔を合わせるのは久しぶりですね。少し、背が伸びられたのでしょうか?」
「本当ですか? 自分では、あまり気づかないのですが」
「周りの方には、何も言われません?」
 ふふふ、とやわらかく声を震わせながら、は上機嫌に言葉を重ねて、円座を置き去りにして距離を詰めてくる。
「ああ、やっぱり。前は、だってもう少し、頭を撫でる位置が下でしたもの」
 そのままよしよし、と頭を撫でさすられ、希は照れくさいやら驚いたやらで、混乱するばかり。
「あ、あの! さすがに、これは」
「未婚の女が、恥ずかしいと? どうか、希殿までそんなことはおっしゃらないでください」
 わたし達は、だって、親子になるのでしょう。
 微笑む双眸は慈愛に満ち、うそぶく声は喜びに満ちていた。戸惑いも、何もない。かつてのように、わかっていて誰もが見ないふりをしていたあの日々よりも、ずっとずっと力強い、存在感。
「おかえりなさい、希殿」
 おかえりなさい、と。それは、何に対して言っているのだろう。鎌倉から京へ戻ったことだろうか。正式に平家に引き取られることだろうか。それとも、何か別の思惑があるのだろうか。彼女の言葉は、昔からどこか謎めいていて、預言めいていて、希にはどこか遠い。そして、そんなことを思っていたから、思い出した。そういえば、自分はずっとずっと、言えていなかった言葉があったのだ。
「ご無事で、何よりでした」
 呼びかけは、保留にしておいた。だって、見送ったのは母と呼んではならないと言われた、月天将としての彼女。今おとなっているのは、いずれ母になるとわかっている、藤原家の猶子たる彼女。でも、いずれにせよ伝えたかった。別れてから、そうだ、思い返してみれば二年ほど。希はずっと、彼女とすれ違い続けていた。
「ずっと、待っていました」
 頭に乗せられていた手を取り、ぎゅっと握りしめて、伝える。絶望を覚悟し、彼女や彼のためならばと道を覚悟し、たくさんの人に支えられて、こうして辿りついた。かつて、何を疑うこともなく信じていた未来に、今、自分達は辿り着こうとしている。


 簡単に近況を語り合ってから、話題はいつしか、二人が共通で知る人物を中心に展開されていた。不安そうに、困ったように、焦れたように。いつになく急いた様子で、は言葉を重ねていく。
 ちゃんと食事はなさっているご様子ですか? 暑さが厳しいですが、眠れておいででしょうか? お忙しいのはどうしようもありませんが、お疲れのご様子ではありません? 重衡殿や将臣殿に、わがままを言ってはいらっしゃいません? きっとお互いに戯れのうちとご了解済みなのでしょうけれど、時に度を越して、将臣殿は特に、ご機嫌を損ねていらっしゃいますし。
 心配も気がかりも尽きぬようで、希が知る限りの様子を語ってやっても、は落ち着かない。
 泰衡殿も教えてはくださいますけれど、平家の皆さんは、いまこの時期だからと、決してわたしに会いにきてはくださりませんし、わたしから出向くなどもってのほか。文も、下手な噂の根源にしたくはないので、出せませんし。
 溜め息交じりに俯けられた視線に、自分の手出しが余計なお節介だったような、こうして訪ねることとなって良かったような、希は複雑な気分である。
 絆の揺らぎのなさは、さすが。けれど、やはり文だけでは足りなかったのだ。
 互いを知らないままに、恋を育てようとしているのではない。彼らは、これまでに二人の生活をしっかと確立している。共に在ることこそが当たり前だった。それをいきなり引き裂かれたのだ。相手の気持ちが離れるのを疑うのではなく、ただ、相手の日常が気にかかる。自分が支えていたのだと、拠り所になっていたのだと、自覚があるからこそ、穴が空いたことによる弊害を気にかける。弊害が現れていることを通じて、己の価値を計るためではない。弊害が現れることによって、相手が少なからず苦しんだり、辛い思いをしてはいないかと、心配している。
 それは、決しては口にしなかった、おそらくは無意識であろう自信の顕れ。愛しているのだと、愛されているのだと。二人は、共にあってこそ、生きていけるのだと。
 己の感じ取ったものが決して間違いではないだろう確信を抱きながら、希は小さく笑ってしまう。どこまでもよく似た二人であることだ。そして、彼らに愛されているという自覚を揺るがせることのない自分は、どれほど幸せなのだろうかと。


 気づけば、訪ねた際には天頂近くにあった太陽が、だいぶ傾いているようだった。御簾越しに差し込む光の眩しさに時間を悟り、希はやや慌てて、辞去を申し出る。
「あの、申し訳ありません。こんなにも長い時間」
「いいえ、わたしこそ。たくさん、おしゃべりが過ぎてしまいましたね」
 照れたように、恥ずかしそうに。目許を染めているのは、きっと彼女も、これまで自覚が足りなかったからだろう。こんなにも、こんなにも。気になってしょうがない。傍にいなければ落ち着かない。語り明かした時間が、その気がかりの深さを、雄弁に物語っている。
「どうぞ、またいらしてください。次は、水菓子など用立てておきますから」
「はい。お許しをいただけたら、ぜひ」
 互いに、自由に動き回るにはしがらみの多すぎる己の立場のことは自覚している。それに、には言わなかったが、希としては再度の訪問はあるかないか、と読んでいる。まだまだ長い時間をかけなければならないような状況なら、きっと知盛は別の戦略を立てたはずだ。それを、まるで希のわがままをただ叶えるだけのようなあいまいな訪問を企てたなら、それはきっと、それで事が足りるという自信の裏返し。
「どなたか、お客様を送ってさしあげてください」
「はい」
 すっと息を吸い込み、やや声を張って御簾向こうに呼びかければ、いくばくもしないうちに影がやってきて頭を下げる。
「お邪魔いたしました」
「大してお構いもできず。どうぞ、お気をつけてお戻りくださいね」
 にこにこと見送るはきっと、希が一人で、あるいは供と帰ることを前提にしている。知盛の訪問は、きっと徹底的に秘されているのだろう。それはなんだか、先ほど出会った泰衡のちょっとした悪戯心のような気もするが、真相はわからない。先に案内をしてくれたのと同じ女房に導かれ、希は足取りも軽く、知盛が待つだろう部屋へと向かう。

Fin.

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