朔夜のうさぎは夢を見る

にじいろの未来

 来た時と同様、言葉もなくするすると廊下を歩いていた女房が、ふと足を止めた。二歩ほど距離を保って進んでいた希は、やや遅れつつもぶつかる前にきちんと足を止める。
「どうかなさいましたか?」
 前方から主人格の誰かが来る気配もない。庭から何かがやってくる気配もない。もしや体調でも崩したのだろうかと、今度は意図して距離を詰めながら、希は気遣わしげに女房の顔を覗きこむ。
「女君の顔を、いたずらに暴くものではありませんよ」
 と、すぐ脇の局から、穏やかながらもしっかりと窘める声が響き、希はぎくりと動きを止めた。
「お優しい心遣いは、素晴らしいと思いますが。そういった際は、顔を見ることのないよう、気を配るものです」
 そう言いつつも自分は堂々と顔を曝したまま、音源を振り返った希に、新しく姿を現した女房がにこりと笑いかける。
「平知盛様がご嫡男、源希様でございますね」
「……はい」
「どうぞ、そのように警戒なさらないでください。少し、お聞きしたいことがあるだけなのです」
 希は、この邸自体に用向きはない。に会えればそれでよし。泰衡と面識を得られたのはありがたかったが、それだけだ。何を問われても困るし、何も、答えられることなどない。
 困ったように微笑みかける女房に、先手を打ってそう伝えようとしたところで、機先の制し方はさすがに相手の方が上手だった。
「胡蝶の君は、なにか、この邸についてのご不満など、仰せではありませんでしたか?」
「え?」
 言葉はやや物騒だったが、問いかける声音と表情が、女房の内心を雄弁に物語る。
「何か、何でもいいのです。このところ、ご気色があまり優れないのです。お声かけしても、心ここにあらずといったご様子ですし。お心にかかることがあるのなら、なんとかしたいと思っているのです」
 あわせるように、希の先導に立っていた女房もまた、悲しげな様子で言葉を重ねる。


 あまり曖昧な問いでは答えにくいと思ったのか、質問を変えて次々に問いただしてくる表情はどれも、好奇心ではなく気遣いに満ちていた。なるほど、彼女らは別に、知盛が嫌いだから、が気に喰わないからと二人の逢瀬を阻んでいるのではない。希にはまだわからない、けれどいろいろなしがらみやらを理由に、二人に距離を保つ時だと諭しているのだろう。
 振り返れば、それは別に不思議な話ではない。
 理不尽な八つ当たりに甘んじるほど、知盛は愚かではないし、そもそもそんなところに彼女を託したりはしない。状況に対して、黙っているということ、甘んじているということ。それは、本意不本意はともかくも彼の同意を示し、事情への理解を意味する。彼も彼女も、これを必要と判じ、けれど寂しさばかりは拭えないのが現状なのだろう。
 察してしまえば、希とて口を噤む必要もないし、いたずらに警戒を張り巡らせておく必要もない。
 女房達の問いかけに丁寧に答え、彼女らの不安をきちんと解消する。そうこうしているうちに当初の予定をはるかに過ぎてしまったが、待ちかまえていた知盛も泰衡も、動じた様子はないし、何かを疑う気配もない。どうやら、すべて彼らの想定の内、掌の中で転がされているだけだったのだろうと、察したところで悔しいとさえ思わないのは、さて、希が彼らのような在り方に毒されているのか、同類だからなのか。
 帰り道をゆらゆらと揺られながら、いつもよりも雄弁に、知盛は藤原家でのの様子を問うた。すべて想定の内、怖れることは何もないとみせる彼も、決して完璧ではないのだと。やはり、いつか何かの折に感じたことをふと思い出しながら、希は丁寧に、必死になってとの会話を再現していく。
 未来への不安はない。彼らの歩む道が分かたれる不安など、微塵も感じていない。けれど、そんな彼らだからこそ、しかるべき形で互いの隣を勝ち取るまでのこのわずかな時間を、男女の常とは違う形で埋める必要性があるのだろう。
 その役を担うことができたことが嬉しいし、その役を任せてもらえて嬉しい。そして、叶うならずっと、こうして、彼らと共にいられればいいと、願っている。


 助言に対する結果の報告と、その感想と。さらに少年なりの考察を添えて送られた文に、政子はころころと喉を鳴らした。
 子はかすがいと、言いますけれど。
 くしくも、思い浮かべた言葉を知盛が同じく口にしていたことなど、政子は知る由もない。
 本当にかすがいですね。かけがえのない、なくてはならない存在。だからこそ、きっとあんなにも必死になって、あの子供をそれなりの理屈と理由をつけて引き取ろうと新中納言が奔走していたことは、彼の名誉のためにも黙っていてやることにする。
 返答のために文をしたためる紙を選び、墨を所望して、政子はゆったりと笑う。
 送られてきた文には、もう一通が添えられていた。伸びやかで堂々とした筆跡は、年齢の割に整った希の筆跡にどことなく似ていて、小憎らしいやら悔しいやら。

 ――銀も金も玉も何せむに 優れる宝子にしかめやも

 いくらでも深読みの可能な、けれどきっと、今回は謝礼の歌なのだろう。
 案外可愛らしい一面もあると、なんだか気持ちが和んだので、これはあの子供に教えてやろうと思う。気を回しすぎるところのある子だけど、きっと、彼のこんな気持ちには気づいていまい。これは、親となって初めて知る感慨。親となる可能性を得て、はじめて思いを馳せる心理。言葉の意味は通じるだろうが、深い深い思い入れは、きっと九郎にだってわからない。
 そのまま上機嫌にゆるゆると言葉を綴っていると、ふと廊下に足音が響き、棟梁殿がわざわざ顔をのぞかせる。
「あら、あなた。どうされまして?」
「文の中に、奥州藤原氏からのものがあってな」
 筆を置き、上座に席を調える女房が退くのを待ってから問いかければ、ゆったりと腰を降ろした頼朝は淡々と声を綴る。
「なんでも義娘の婚姻が決まったということだが、祝いの品を選ぶのを、任せられるか?」
「あら、あらあら」
 件の文は、恐らく政子が今手にしているものと同じ使いが運んできたものだろう。頼朝の許に届けられる文は政子の比ではないから、きっと反応が遅くなったのだ。
 そういえば、今回の文を届けたのは、式神ではなかった。常と違ってずいぶんのんびりと届けられたものだ、との感想ぐらいしか抱かなかったが、なるほど。どうやら、情報が先走らないよう新中納言に謀られたらしい。
 一人だけ裏事情が見えるからこそ、おかしさもひとしお。くすくすと笑い、政子は揺れる声を隠しもせずに「ええ、もちろん」と応じる。
 銀も、金も、玉もいらない。我が子以上の宝はあるかと隠さずに言い放つ、いかにもわがまま極まりない相手だ。ならば、銀も、金も、玉も及ばないような宝を贈ろう。確かに、あの子に勝るものは思いつかない。けれど、子のために。彼らの子に、自分達の子に、孫に。未来永劫、子々孫々、繋がるような素敵なものを贈れれば、きっと宝はますます輝くだろう。
「でも、一緒に考えてくださいませ?」
「無論」
 笑っている理由はわからないだろうに、頼朝は政子の言葉に迷いなく頷く。きっと、とても素敵な贈り物ができるだろう。根拠のないそんな確信を抱きながら、政子は「でも、先に文を書かせてくださいね」と言って、頼朝も許してくれることを知っているからこそ、我が子のための時間を優先させることに決めた。

Fin.

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