朔夜のうさぎは夢を見る

にじいろの未来

 常に返事は遅い方ではないのだが、いつになく素早く返されてきた見覚えのある式神に、希は自分はなにかそんなにも深刻な内容をしたためただろうかと不安になる。しかし、慌てて中身を確かめてみれば、いたって普通の、いつもとなんら変わりのないものであった。
 時節の挨拶、体調を気遣う言葉、鎌倉の近況と、希の綴った京での様子に対する感想。それから、もどかしいことこの上ない“両親”への、希の介入の仕方についてのごくごく真面目な助言。
 助言の内容を読みながら、希はわずかに表情を歪めた。どうやら、事態は希が知っていた以上に進展を見せているらしい。いつまでも正規の関係には至らず、なんとなく、あやふやな、けれど誰にも引き裂けない絆で互いを唯一と定めているのが、希の知る知盛との在り方だった。ただ、それではいささかの立場が弱かろうと思い、今度を憂えてほんの少し愚痴をこぼしただけのつもりだったというのに、思いがけないほどの裏事情が綴られている。
 政子は、希がこれを知っていると思っていたのだろうか。それとも、知らないことを踏まえたうえでしたためたのだろうか。なんとも判別のつけがたい文章ではあったが、いわんとされていることやら現状やらの全容は、なんとなく読みとれる。
 既に当人同士の心は決まっており、両家の合意もすんでいる。とはいえ、知盛にはこれまでに散らしてきた数々の花があり、いまなお散らされることを、あわよくば手折ってその手中にと狙う数多の花々がある。それらをきっちり片付けない限り、文は許しても通うことは許さないと、藤原家の女房達は、主に新しくできた娘に対して、見上げるほどに守りが固い。つまり、そこで足踏みをしてしまっているのが現状である、ということだろう。


 いまさらこの程度の隔絶で揺らぐような絆の持ち主ではなかろうが、希としては、彼女には早く幸せになってもらいたいし、堂々と“母上”と呼びたいのだ。
 ころころと笑う声が聞こえてきそうなくらい、文面は上機嫌だった。こうして落ち着いて、心に余裕を持って向き合ってみれば、政子はとても愛らしい女性であった。これでいて、頼朝に対して自分から攻勢をかけてその心を射止めたというのだから、女心はわからない。
 文にいわく、ならばその手を貸してみてはいかがか、というのが政子の言い分。女心に響くは、愛らしきもの、美しきもの、麗しきもの。新中納言の手腕になびかない女房なれども、あなたのような可愛らしい子供にねだられれば、邪険になどできないでしょう。通って差し上げなさいな。そうすれば、かくも愛らしき御子が、母を恋しんで寂しがっていると憐れみ、きっと少しは手が緩むでしょう。
 もっとも、新中納言殿が片をつけねば通わせないというのは、何も変わらないでしょうが。
 政子の助言では、結局婚姻の時期は変わるまい。だが、確かに一理はあろう。希としても、藤原家の女房達と良好な関係を築くのは、望むところである。なにせ、母方の実家となるのだから。
 しかし、そうと決めたはいいものの、これは希一人で判断し、行動に移すにはいささか規模が大きすぎる話だった。よく考えてみれば、希は京の梶原邸に身を寄せてから、一度も邸の外に踏み出したことがない。この場合、誰に申し出るのが筋なのかさえ、わからない。
「……梶原殿に、ご相談してみようかな」
 とりあえず、この突飛な行動について、鎌倉の許可は手元の文で十分だろう。次に許可を得るべきは、今のところ身請け先となっている九郎か、邸の主である景時か。いずれにせよ、景時を経由しなくては話が進まない。
 今度、見かけたら声をかけて聞いてみよう。それまでに、切り出し方を考えなくてはならない。まさか直截に思うところを述べるわけにもいかないし、あまり婉曲的過ぎても通じないだろうし。そんなことを徒然と考えていたというのに、機会は希の想定よりも早く、もっとわかりやすい形で翌日の昼過ぎに訪れた。


 現れた機会の名は平知盛。まさに渦中のその人である。
 よく熟れたすももを片手にふらりとやってきた父の姿に、希は思わず「しまった」と口の中で呟く。そうだ、忘れていた。このところ、九郎や景時と並んで高頻度で目にするため日常にすっかり溶け込ませてしまっていたが、まずは当人である知盛の許可を取りつける必要がある。それこそ、遠からず正式に己の父となるのだ。良好な関係は必然。まさかこの人がこの程度のことで目くじらを立てるとは思わないが、笑って受け流してもらうには、さすがの“父”も“母”が絡むと反応の仕方が読めなくなる。
 しかも、それなりに数があるからと、すももを囲む座には、折りよく居合わせた望美や九郎も同席している。話がどこまで、どのような形で伝わっているのかを、希は知らない。知らないままに切り出していいのか。しかし、この場を逃さず利用できれば、必要な許可をいっきに取り付けることができる。悶々と悩みながらすももを齧っていた希は、ふと思考の海から浮上して感じた目線に首を巡らせ、策を弄すことを放棄することに決めた。視線の主は、知盛。お前は何を企んでいるのかと、その視線はいかにもおかしげに笑いながら問いかけてくる。


「そういえば、」
 九郎と望美は、まだ希の思考が逸れていることまでは気づいていない。ならば、素知らぬ振りを貫くのが一番か。どうにもならなくなれば、きっと“父”が助けてくれるだろう。希のためではなく、自身のために。
 いかにも思い立ったという口調を装って声を上げれば、なんだなんだと視線が向けられる。試すように、わらう深紫の視線は、愉悦を期待している。
「文では胡蝶殿とお呼びしているのですが、いつになったら母上のことを“母上”とお呼びしてもよろしいのですか?」
 あまりにも当たり前のような口調で問いかけてやれば、どうやらこれは知盛の予想を超えていたらしく、表情にわずかな苦みが走るのが見えた。あまり、子供だからと侮ってはいけない。決して敵うこともなければ追いつくこともないと感じていた父の予想外を突けたことに、希は小さからぬ興奮を覚えながら、返答を待つ。
「……今しばし、控えろ」
 しばらくの黙考の後、返されたのは期待を含んでいいような、微妙な文言。
「今しばし、ということは、遠からずは構わないと?」
「それは、お前の心がけ次第か」
 重ねて問いかけてみれば、開き直ったようににやりと笑い、知盛は堂々とうそぶく。事情のすべてを知っているわけではないらしい望美の疑問に満ちた視線も、なぜ希が知っているのかと隠すことなく首を傾げている九郎の視線も、知ったことではないと。
「父母は、仲睦まじい方がよかろう?」
「もちろん」
「では、片棒を担ぐ気は、あるか?」
「ボクで、できることならば」
 愉しげに希の双眸を除きこむ深紫の視線には、どこか雄の気配があった。希には馴染みの薄い、きっとはすっかり把握しているのだろう、知盛の一面。そういえば、いつだったか言われたことがある。母であるは希のもの。それ以外のは、知盛のものなのだと。


 答える声がどこか誇らしげだったのは、きっと浮き立つ内心を隠しきれなかったからなのだろう。呆れたように笑う望美が横目に見えたが、構う気はない。だってこれは、この要請は、この許可は。知盛が決して譲りはしないと言ったの所有権を、希と共有しようと歩み寄ってくれた証なのだ。
「では、共同戦線と参ろうか」
「承知しました」
 子供の目を覗きこむために前のめりにかがみこんでいた姿勢をすっと元に戻し、知盛は希の返答に満足げに頷く。
「子はかすがい、と言うゆえな。お前の姿を見れば、頑ななことこの上ない藤原の女房殿も、少しは俺を信用してくださろう」
「その、俺からも泰衡殿に、伝えましょうか?」
「構わんさ。こればかりは、身から出た錆」
 どことなく申し訳なさそうな九郎の言葉にあっさりと首を振り、知盛は肩をすくめてさえみせる。
「清算をしてから、というのは別に、言われたゆえに従っていることではない。己で定めたけじめだ。ただ、これまでとあまりに勝手が違って、少々戸惑っているのも事実だが」
「ボクは、どうすればいいですか? 何ができますか?」
「使いを頼もう」
 身を乗り出し、小首を傾げて問うてくる希の頭をやわらに撫でてやりながら、知盛はいたずらげに微笑む。
「常は物言わずとも思ったことを雄弁に伝えてくるくせに、文になった途端、言葉が足りなくなる。意固地なところは、お前も似たようなものか?」
「そんなことはありません」
 くつくつと喉を鳴らされても、希には政子との遣り取りによる自信がある。むっと眉根を寄せて即座に反論を示すが、そういえばこの場にいる誰にも告げたことはなかったかと、詳細については口を閉ざす。

Fin.

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