にじいろの未来
鎌倉は大倉御所の政子の個人的な居室には、いつでも色とりどりの紙が揃えられている。鎌倉は棟梁の正室として、したためるべき文は意外と多い。けれどそれに限らず、政子は文を綴ることが好きだった。
文では伝えられないことは、もちろん、たくさんある。文字は、限られた言葉しか綴ることができない。たとえば「いとおしい」という言葉をひとつとったところで、頼朝に向ける言葉と九郎に向ける言葉と、景時ら御家人に向ける言葉では、声音がまったく変わってくる。それを、文字で表すことはできない。
けれど逆に、面と向かっては伝えられないことも、文ならば伝えられるという場合も存在すると思う。表情から、声音から。言葉以上の思いは伝えたくないけれど、伝えなくてはいけないこととてある。顔を合わせてしまえば畏怖と遠慮が先に立つのだろう、御家人からその本音を探りだす上でも、文は非常に便利な手段だった。
だから、政子は平家は新中納言の手で育てられていたという子供を引き取った際、最初に「文を交わしましょう」と申し出たのだ。申し出た相手は、引き取った子供。これまでに育ってきた境遇も違えば、年齢ももう幼いとは言い切れないほど。相手の生活の基盤もわからないままでは、何かとやりにくいことも多かろう。言いだしたいこと、言い出しにくいことも少なくないだろうし、もし時間を取ってほしいと思っても、頼朝は忙しい。事前に調整が必要となるが、それはそれで、やはり言い出しにくかろう。
ゆえに、文。堅苦しい決まりはいらない。ただ、日記のように、思ったこと、伝えたいこと、その日にあったことなどを徒然に綴ってやりとりしましょうと、伝えた。
実際、最初のうちは戸惑う様子が文面にありありと見てとれたが、政子の側が率先して手本を見せれば、希はすぐに応じてきた。だからこそ、もう子供の体力が限界だと先に気づけたともいえるし、京に預けるという突飛な選択を取れたとも思っている。
京と鎌倉という距離の隔たりが生まれたため、頻度はやや落ちた。それでも、政子と希の文のやりとりは、途切れることなく続けられていた。どうやら景時が気を回したらしく、美しい鳥の式神を手に入れて、政子と希のやりとりに一役買ってくれたのだ。
おかげで、政子は希を京に預けてからの、九郎や望美がどう立ち回ろうかと右往左往する様子を手に取るように理解できたし、それに対して一層希が苦悩している様子も把握していた。ずっと水面下で渡りをつけていた新中納言が、どうやって希に接触したのかも。それを、希がどれほど嬉しく、誇らしく感じ、どれほどまでに安堵したのかということも。
さすがに、正式に平家の猶子となることが決まった以上、そろそろこの気安いやりとりも終わりにしなくてはならない。そう告げつつ、けれどできれば時候の挨拶くらいは交わしましょう。正式に新中納言の邸に赴くまでは、もう少し続けましょう。そう互いに示し合わせてやりとりする他愛のない、穏やかな日常を語り合う文。
今日も今日とて、先日送った文への返事が届いたのだろうと空から舞い降りてきた純白の鳥が携えていた文を紐解いて、政子は小さく「あらまあ」と呟く。
「あら、あらあら」
もともと大きな瞳をさらに大きく見開き、ぱちぱちとゆっくり瞬いて、いかにも楽しげな声で「あらあら」と繰り返しながらも唇がほころぶのは止められない。常に返事に必要以上の時間をかけているつもりはないが、これは早々にしたためる必要があるだろう。
「誰か、墨を用意してくださいな」
絡げてある御簾の向こうに目もやらぬまま呼びかけ、そっと去っていく衣擦れの音を聞きながら、政子はころころと喉を鳴らす。これは、どうやら楽しいことになっていそうではないか。
希のことを平家で引き取りたいという打診があったのは、実はそれなりに初い段階でのことであった。
質の交換の話が出た折り、最初に話し合われたのは、このまま月天将を九郎の妻に据えてはいかがか、という案だった。武家の妻として、これほど事情への理解が深く、いざという時の懐刀としての価値も高く、政治的な利用価値の高い存在は珍しい。それこそ、源氏の神子として担ぎ上げていた春日望美に匹敵するか、あるいは凌駕するほどの存在。
ただし、いかんせん月天将は源氏の敵としての存在感が強すぎた。和議の倣いが両家の婚姻であったとしても、月天将をこのまま源氏に受け入れるには、源氏側に心情的な躊躇いが大きすぎる。ゆえに、あまり深く論議されないまま立ち消えとなった。
次に目をつけられたのが、希の存在だった。こちらもまた、月天将と同様に噂が先行した存在。違ったのは、なんだかんだと戦功によって存在を証明し続けていた月天将と違い、一切表舞台に上がらないため、単なる流言ではないかと疑われていた点。しかし、平家から寝返った一定以上の地位にある郎党は、みな口を揃えてその噂は真実であるという。それゆえに実現した質の交換であったのだが、それだけではやはり、両家の結びつきは不安定であり、この和議に対する覚悟が見えにくい。そんな不満がちらほらと御家人達から挙がりはじめてきたきっかけこそが希の京行きだったのだから、なんとも正直なものである。
御家人達から不安の声が挙がった理由の一端は、けれど新中納言からの秘密裏の打診にあった。いわく、そろそろ落ち着いてきたゆえ、月天将との婚姻にこぎつけたい。しかしそれには当の月天将の立場があまりに不安定に過ぎる。和議の倣いとしては源氏と結ぶことこそが理想的ではあるが、それではあまりに話ができすぎているし、さすがに自分も月天将も心苦しい。ついては平泉を頼るつもりだが、権力を集めるなどの他意はなく、悪しからずご了承いただきたい、と。
いくら秘密裏ではあっても、情報はどこかしらから漏れるのであろう。まして、これは決して小さな目論見ではない。これほどの目論見なれば、関わり合う先が多くなるのは必然であり、当然のように、末梢の情報はぽろぽろと零れ落ちる。
とはいえ、打診があってよりしばらく、話が順調に進んでいると聞いていたのだが、どうやらさすがの新中納言も辣腕の女房殿には手を焼いているらしい。過去に京や福原にて絆し、たぶらかしていた相手とは違い、過去の実績が通じない相手はなんともやりにくかろう。しかも、これまでとは違って今後とも末長く良好な関係を築かねばならない相手。強引な手段に及ぶわけにもいかず、様子見に徹さざるをえないといったところか。
だが、それではいかにも哀れである。待たされている側の月天将と、希が。
くすくすと笑いながら、政子は届けさせた墨をたっぷりと含ませた筆先を、選び出した紙の上に滑らせる。
古来より、女を手なずけるには贈り物にて矜恃をくすぐるか、母性につけ込むのが常套手段。己が手腕で母性をくすぐれないなら、子供か動物を使えばいいのだ。
Fin.
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