朔夜のうさぎは夢を見る

軌跡を生むもの

 どんなに馬鹿馬鹿しくとも、下らなくとも、無碍にできないのはひとえにこの客人が父親の賓客という身分にあるからである。とりあえず、自力で着替える努力はしたらしく、しかし余計な足掻きゆえに皺の寄ってしまった狩衣を広げ、知盛は複雑な溜め息を落とす。
 気分は子守りのそれ。完全に下がるわけにもいかず、部屋のすぐ脇の廊で縮こまっていた先の年若い女房に新しい狩衣を用意するよう命じ、知盛は「一度で覚えろ」と前置いてから、説明をしつつ客人に衣を着せ付けていく。
「……とにかく、小袖と袴ぐらいまではまっとうに着られるようにしろ。その上なら、女房に手伝わせても構わんのだろう?」
「ああ、そうだな。……うん、たぶん大丈夫だ」
 手の動きをじっと追いながら生返事を返していた客人は、仕上げに戻ってきた女房から受け取った新しい狩衣の蜻蛉紐を結び終えた知盛ににっかりと笑いかける。
「サンキュな。助かった」
「……」
「あー、やっぱ通じないか。ありがとう、って意味だ」
 着心地を確かめるように腕を回し、軽く身じろいでから向き直った客人は奇妙な言葉を紡いでから、沈黙を保つ知盛に改めて頭を下げ直す。
「お前の国の言葉、か」
「ああ。でも、通じないんならなるべく使わねえように気ぃつける」
 殊勝な物言いは、やはり物の道理をわかっているがゆえだろう。まったくもって奇妙な男だと、自身の姿を見下ろしてはしきりに感心している客人に、知盛は溜め息ではない吐息をこぼしていた。


 とにもかくにも、着替えを終えたならばこんなところでぐずぐずしているわけにはいかない。客人もまた清盛から朝餉の席に招かれているのだという話は、助けを求めに来た女房の口から聞いている。邸の造りをまるでわかっていない客人を引き連れて、知盛は常よりも急いた歩調で廊を進む。
「あ、そうだ。俺、アンタにはまだ名乗ってなかったよな」
 足音も、床の軋む音も立てずにするすると進む知盛とは対照的に、客人はどかどかと豪快に足音を立てて歩く。あえて音を立てているわけではなさそうだが、摺り足で進むという概念がどうにもないらしい。
 半歩後ろを歩んでいた足を少し速め、隣から覗き込むようにして笑う。
「俺は有川将臣っていうんだ。……昨日は、騒がせて悪かったな」
「父上がご満足だったようだからな。構わんさ……。俺は、平参議知盛という」
 応えて名乗り、律儀なことと知盛は口の端を歪めた。
 互いに名はもう知っている。昨晩、客人はいたく上機嫌だった清盛に問われるまま己のことを語っていたし、父が息子を知盛と呼ぶのも聞いていただろうに、改めて名乗りを求めるとは。
「参議? それって身分みたいなもんだよな? あわせて名乗るのか?」
「……名、そのものよりも、官位やら俗称やらで呼び合うゆえな」
「へぇ。じゃあ、さっきの人は“左兵衛督様”って言ってたけど、ああいうのが普通なのか?」
「………客人殿の国許では、どうだかは知らんが。名を呼び合うのは、よほど親しい場合が多い。それに、ここは俺の邸ではないからな。就いて長いこともあるゆえ、左兵衛督と呼ばれることの方が多い」
 知盛の年齢で参議を務めることは、はっきり言って異常である。ましてや左兵衛督や複数の知行国主も兼ね、しかも正三位に登りつめているなど、もはや非常識の権化。もっとも、そういった事情はどうやらまるで伝わらなかったらしい。あくまで名前以外の呼称が主流であることに驚いているらしい客人に、知盛はふっと肩の力が抜けるのを知覚する。


 ちょこちょこと纏わりつくようにして言葉を投げかける様には、ありし日の弟や従弟を思い出す。仄かな郷愁に駆られてゆるりと解説を紡げば、しきりに感心した調子で「へぇ」と相槌を繰り返す。
「じゃあさ、俺もそう呼んだ方がいいのか?」
「お前にとって、俺は“左兵衛督”なのか?」
 ふと伺う調子で問いかけられ、いたずらげに笑いながら、問いを返す形で混ぜ返す。予想通り、ぐっと眉間に皺を寄せて難しい表情になった客人は、確か年を十七と言っていたか。年齢の割に幼げな表情をみせるのは、日々の生活で苦汁を舐めたことのない証。
「違ぇな。でも、だったらどう呼べばいいんだ?」
「客人殿の、好きにすればいいさ」
「……その“客人殿”っての、やめてくれよ。名前は名乗っただろ?」
 あっさりと自分の提案を撤回し、くるりと瞬いた瞳は期待と好奇心に満ちている。どうせ許可など与えずとも、勝手にするに違いないとは思っていたが、あえて期待通りだろう言葉を投げかければ、今度は呼称に不満を示す。
「俺はお前を知盛って呼ぶことにする。それでいいか?」
「お好きなように、と言ったはずだな……。お前は日頃、どう呼ばれるんだ?」
「あー、有川ってのが一番多いかな」
「では、俺もそれに倣うとしよう」
 言葉を紡ぎ終えるのと、いつの間にか速度が落ちてゆるゆると進めていた足が目的地に辿りついて止まるのは同時。
「おう、よろしくな、知盛!」
「よしなに……有川」
 日輪のような、という形容が何よりも似合うだろう笑顔に答えながら、知盛は、今は遠い懐かしい面影を胸中で静かに悼んでいた。


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