軌跡を生むもの
一夜が明け、そのまま父の邸に泊まり込んでいた知盛は、朝のざわめきに日常と異なる気配を感じ取り、安眠の妨害とばかりに褥の中で遠慮なく顔をしかめた。上機嫌の父に付き合い、知らぬわけではなさそうなくせに言葉さえままならない客人に付き合い、実のところ疲労は地味に深い。
「知盛様、お目覚めでございましょうか?」
「……ああ」
だというのに、まるで計ったかのように、廊から静かに呼ぶ声がある。できることなら聞かなかったことにしてこのまままどろんでいたいのだが、声の主に心当たりがある以上、それはできない相談。まったくもって、父母は自分の性情をよくよく理解していると頭が痛くなる。
「失礼いたします」
穏やかな、しかし有無を言わせぬ語調で断ってから入ってきたのは、母に仕える古参の女房。生まれたときからずっと見知られているとあっては、たとえ主従の関係とはいえ、知盛にとっては礼と敬意を払って接さねばならない相手の一人。
体を起こし、昨晩と同様に単の上に上掛けを羽織って簡単に身なりを整え、几帳の向こうで控えている女房の許に歩み寄る。準備の良いことに、その脇には角盥と衣とが用意されている。
改めて深く頭を下げ、女房は「おはようございます」と述べてから手元の衣を差し出した。こういった勝手知ったる気遣いは、さすがは自分をよく知る女房だと、寝起きの不機嫌さを少しだけ回復させながら知盛は肩から衣を落とす。
基本的に周囲との過剰な接触を嫌う知盛は、一門の他の者たちと違い、着替えだの何だのといった身の回りの仕度は自分で行なう。貴族の煌びやかさの中にあって武家としての在り方を忘れないこだわりは、奇異にして特異。そして、周囲に何と言われようと己が信念を貫く有様は潔く、ゆえにこそその主に認められて仕える知盛の邸の女房やら郎党は、誰もが認める実力派ぞろいとして、誇り高く背筋を伸ばしている。
几帳の向こうで寝具を片付ける音を聞きながら黙々と身だしなみを整えていた知盛は、ふと耳についた父の邸にふさわしからぬ喧騒に、几帳の向こうに声をかける。
「ずいぶんと騒がしいようだが……、何かあったか?」
「清盛様にお客人がございまして」
「客がいるのは、知っている。だが、この騒ぎは何事だ?」
返されたのは期待以下、想定の範囲内の答であり、決して知盛の要求を満たすものではない。言葉が足りない傾向にあるのは自覚しているため、説明を加えて改めて問えば、珍しくも戸惑いを殺しきれていない表情が几帳の向こうからやってくる。
「……その、お懐かしい面影の御方であらせられましたので。ようよう言い聞かせますゆえ、なにとぞご容赦願いとう存じます」
「いや、構わん」
今度の答は、納得に足るだけの存分な内容だった。ただでさえ寝起きは不機嫌な知盛を悪い方向に刺激していたことを察したのだろう。深く下げられた頭に軽く手を振って応じ、意外さを湛えて持ち上げられた視線には、苦笑と嘲笑を交えて対峙する。
「俺も会った。……あの顔は、確かに騒ぎの原因となろうな」
言って狩衣の細部を整え、身繕いが終わったところで朝餉は寝殿に用意してあると促す女房に続いて廊へと踏み出せば、今度はあまり見覚えのない年若い女房が慌ててこちらに向かってくるのが見える。先に立っていた女房が何事かと問うよりも前に、彼女は知盛を見て表情を輝かせ、さらに足を速める。
珍しいこともあるものだと、足を止めてぼんやり見やる知盛たちのすぐ傍まで歩み寄り、そして彼女は深く叩頭する。挨拶もそこそこに告げられた要求は、いまだ起き抜けでぼんやりと霞のかかっていた知盛の意識を覚醒させるのに十分な威力を発揮する、あまりにも常識はずれなものだった。
先導の女房はとっくに追い越し、それでも足音もなく目的地にやってきた知盛は、断りもなく御簾を跳ね上げ、そして几帳の向こうからのぞく困りきった顔に出会った。
「お、よかった。来てくれたんだな」
朝っぱらから悪ぃな。てか、ここの人たちって朝が早ぇな。
のんびり笑って「少し待っててくれ」と言い、ようやくやってきたのは、かろうじて襟を合わせた程度の単を纏った客人。夜が明けたというのに夜更けの、しかも閨事を連想させる乱れた姿に、追いついた女房たちが息を呑んで硬直する気配を感じる。
深々と溜め息を吐き、がっくりと落ちた肩を隠しもせず手の動きだけで下がるよう申し付け、人気が去ったことを確認してから見やった目の前の青年のあられもない姿に、知盛はらしくもなくめまいと頭痛を覚える。
「……で? わざわざ呼びたてて、乱れた姿で朝から俺を誘惑でもするつもりだったのか?」
じろりと睨めつけて低く声を這わせれば、しばらくぽかんとした後に顔中を紅潮させ、挙動不審に手を振り回しながら必死の弁明をまくし立てる。
「ば、馬鹿なコト言うなよ! お前を呼びにいってくれた人から聞かなかったのか!?」
「聞いた」
そして、そのあまりにも馬鹿げた内容が信じられないから、別の可能性について問い質してみただけだ。知盛には、こんな得体の知れない客人を餌食にしなくても、夜露に濡れる花を両手に溢れさせるほど散らしてきた過去があり、花を選ぶ側にあるという自負もある。
改めて大きく息を吐き、仕方がないからその信じたくなかった内容について、確認を取る。
「………着付けができん、と」
「おう」
「…………だが、女房に手伝わせることができん、と?」
「いや、だってほら、なぁ?」
視線をうろつかせ、頬を染めながら「恥ずかしいし」とのたまわれても可愛げなど感じない。つまるところ、着替えを手伝って欲しいという要求を、同性であり、昨晩ちらりと見知った知盛になら訴えられるというのが、客人の言い分だった。
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