朔夜のうさぎは夢を見る

軌跡を生むもの

 しばらく、口の中で現実を否定しては夢に縋るという相反する二種類の言葉を繰り返していた男は、ふと我に返って庭に立つ息子へと目を向ける。
「知盛、どうしたというのじゃ。これは何事ぞ?」
「……あまりの騒がしさに、何事かと出向けば捕り物の最中。長引かせるのもどうかと……参画した次第」
 恭しく頭を垂れ、嘯きながら流した視線は件の侵入者に据えられる。
「灯りの下にて見やり、驚いたのは私とて同じこと……。ですが、この男……重盛兄上ではございますまい」
「なぜ言い切れる? 見るほどに重盛そのものではないか!」
 言葉の勢いのまま階を降り出した父親を、手近の郎党を呼ぶことで庭に下り立つ前に留まらせ、知盛はようやく刀を引き抜き、ついでに座り込んでいた男の腕を引き上げる。
「立て……御前にはべるだけでも、賊たる貴様には過ぐることというのに……。父上に、ご足労をかけさせるな」
「わかった、立つよ。自分で歩くから、放してくれ」
「………お前、不審人物だという自覚はないのか?」
「え? あ、ああ、そっか。悪ぃ」
 知盛の嫌味に眉を顰めはしたものの、素直に従う様は諦めたというよりも道理をわかってのものに見える。その証拠に、理屈を示せば拘束にも納得している。ただの夜盗と括るには、あまりにも違和感のありすぎる相手だった。


 後ろ手に束ねた腕を覆う衣は、絹とも麻とも違う不可思議な感触。だいぶ埃と泥に汚れているものの、決して下等な品ではない。荒れていない手指といい、物腰といい、そこそこの身分の出と思われるが、どうにも掴めない。
 松明があるにもかかわらず視界がおぼつかないのか、頼りない足取りで階の前に辿りついた青年の肩を押さえ、膝を折らせる。途端、待ちわびていた男が汚れた肌にも構わず指を伸ばし、その顔を持ち上げさせる。
 見極めるというにはあまりにもぎらぎらと光る眼は、鬼気迫るようでもあり、縋るようでもある。父親の気配を感じ取ってから燻っていた面倒ごとの予感が、いよいよ現実味を増していく。
「……重盛では、ないのか」
 両の頬を包み、まじまじと見やってから両手と一緒にこぼれた声は、悲嘆と諦観に濡れていた。過ぎるほどにわかりやすいその落胆に、青年は困惑したように「すまない」と呟く。
「忍び込んどいて言うことじゃねぇってのはわかってんだけど、なんか、絶対入っちゃまずいところに踏み込んだみたいだな」
 様々な表情を添えて向けられた視線の中、眉根を寄せて続けられた言葉の聡明さに、知盛は密かに目を瞠る。


 やはり、単なる盗人と処断するのは早計だろう。無表情の向こうで青年の身元を推測しながら、油断なく盗み見たのはいまだ青年から手を放そうとしない父親。こちらは隠すことなくありありと目を見開き、しかしすぐに豪快に声を上げて笑い出した。
「お前、ほんに愉快な奴じゃな! ここをどこか知っての狼藉ではないと言うのか?」
「あいにく、地理さえよくわからねぇんだよ」
「なれば、お前は自分が誰の邸に忍び込んだかも知らねば、吾が誰かもわからぬと?」
「ああ、その通りだぜ。この界隈で一番裕福に見えたから忍び込んだ。それだけだ」
 覗き込む笑みに揺れた、しかし苛烈さも隠そうとしない視線に曝されても、青年の表情に偽りの露呈を恐れる気配はない。よほど慣れた者か、あるいはその言葉が真実か。せめぎあう二つの可能性は、男の言葉に対する過剰な反応によって断ぜられる。
「それはまた、見る目のあることだの。お前はその目でもって、この平清盛を見出したのだからな」
「平清盛って……あの清盛か!? あんたが、あの?」
「あのと言われてもわからぬが、この福原に住まうもの多しといえど、平清盛は吾一人じゃな」
 からかい混じりに清盛が切り返した先で、愕然と目を見開き、青年は小さく「嘘だろ」と喘いでいる。繕うだの演じるだのといった行為とは真逆の、それは狼狽もあらわな困惑と絶望。図らずも父子が己に対する様々な疑惑にひとまずの潔白を断じたことに気づいた様子のないまま、青年は今にもくずおれそうになる体躯を必死になって保っている。


 腕にかかる負荷が明らかに増したことにつと眉根を寄せた知盛が問いを発するよりも先に、答は何よりもわかりやすい形で沈黙を引き裂いた。呆れと疑問を混ぜて見下ろす先で、青年が耳を真っ赤にして俯いている。
「おお、そうか。お前、腹が減って盗みに入ろうと思ったのか」
 かかと笑いが闇を裂き、上機嫌な調子で清盛が青年の顎を持ち上げる。
「うむうむ、気に入った。お前は重盛ではないが、お前ほど重盛に似た奴に会うたのもまた、御仏の御意思ということじゃろう」
 言って上げられた視線が知盛へと流れ、軽い、しかし反駁を許さない口調で「放してやれ」と続く。
 真の意味で危険が残っているならばそう易々と従えない命令だったが、今の知盛に特に逆らう理由はない。短い時間ではあったが、観察は十二分。青年に何か含むところがあればことが起こる前に処断する自信はあったし、そも、青年がそういった類の人間でないことも存分に察せた。だから素直に拘束していた腕を解いたというのに、ふらりとよろめいて、結局知盛の腕は青年を支えることに使われている。
「――っと、すまねえ!」
「……構わん」
 前のめりに倒れられるよりはよほどましだったと、溜め息交じりに返す先では清盛が郎党に厨への言伝を命じている。


 夜はすっかり更け、有明の月がずいぶんと高く昇ろうとしている。本来ならば静寂に満たされているはずの邸に、にわかにざわめきが宿りはじめる。
「お前、行くあては?」
「……あれば、こんなことしてないさ」
「なれば、ここに身を置くと良いぞ」
 振り返り、端的に問うた清盛は、拗ねた答えに笑って応じる。あまりにもあっさりと告げられた重い言葉に目を見開く青年の反応が楽しかったのか、笑いは一層明るくなる。
「なに、他人事とは思えんゆえな。これもまた、他生の縁。今宵よりは我が一門を、己が家と思え」
 そうと決まれば食事だと、だらりと下ろされていた腕を引き、さっさと履物を脱いで階に上がれと清盛は青年を急かす。事態の変化についていききれていないのだろう。困ったように見上げられて、知盛は仕方なく青年の背を押し、清盛に従うよう促してやる。
「知盛、お主も付き合え! お主の手柄とも言えるからの。秘蔵の酒をふるまうぞ?」
「……もったいなきお言葉。なれど、是非にご相伴に与りたく」
「遠慮するでない。さ、早よう上がれ」
 ようやく二、三歩進んだものの、不安げに振り向いた青年の視線を辿り、清盛は息子も手招いてやる。一門の棟梁である父の言に逆らうほどの力はなく、どうせ眠気も醒めてしまった。ならば、素直に招きに応じるのが賢い選択というもの。立ち回りの末に乱れてしまった衣を気持ち整えなおし、知盛もまた階へと足をかけたのだった。


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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。