何事にも裏事情がございます 〜知盛少年の人生観〜
ふと真顔になって重衡が見やるのは将臣を通り越し、知盛の隣に座している弁慶である。
「兄上が倒れられた原因は、おわかりになりますか?」
「先ほどのさんのお話と、先に拝見したご様子からするに、恐らくはさんに過剰に気を譲り渡したためと思ったのですが」
何か気になることでも、と。逆に問い返され、暫しの逡巡をはさんでから重衡は重い口を開く。
「……この年頃の兄上は、病にてお倒れになられては死線をさまよっておいででした。一体なぜこのような事態になっているのかは存じ上げませんが、もし今の兄上も同じ状況であれば、予断を許さないことと思いましたゆえ」
「今コイツに死んでもらうわけにはいかないし、骸さえ衆目に曝せない状況はもっと困るし?」
「………不謹慎ながら、そういうことです」
からかうというにはあまりに暗く真剣な口調で嘯いたヒノエに、重衡は偽りなど返さない。
「兄上と月天将殿があって、それではじめて保たれている部分はあまりに多すぎます。皆様とて、お気づきでしょう? 今の、そしてこれからの一門にとって、最も価値が重いのはお二人なのです」
「知盛殿は実質的な一門の総領。さんは一門に神の加護を約す稀なる巫女にて将。京に限らず、鎌倉に限らず、平家一門の威容が今なお衰えないのは、お二人の存在があまりに眩いからともいえますしね」
「南都の一件は、それほどに重かったということか」
「その価値をわかっていたからこそ、知盛殿は、それ以後はひた隠しにすることを選ばれたさんのお力を、かの一件においては隠さず世に知らしめたのでしょう」
九郎の確認に言葉を継ぎ足し、畏怖を滲ませた瞳で弁慶は眠り続ける人畜無害な少年の幼い寝顔を見やる。
「神子でもないのに神の寵愛を受けるのは、それほどの器の持ち主だからなのでしょうね」
だが、今の知盛は見目そのままの年齢の中身でいる可能性が限りなく高い。無邪気でいとけない笑顔を振りまいていたを思い返し、誰もが溜め息を禁じえない。なぜ、どうしてこのようなことになっているかはわからないが、これはすなわち平家一門からその要が取り除かれた状態だ。一日、二日程度ならごまかしがきくだろうが、それ以上の欠落は致命的な痛手でしかない。
それぞれの憂う先を思って再び重苦しい溜め息が充満したところで、ふと息を吐く以外の音が上がる。
「ん……」
身じろぎ、睫を細かに震わせるのは今や注目の真っ只中にいる少年。知らず息を呑む周囲の緊張など、知ったことではないのだろう。ゆるりと瞬きを繰り返し、そして少年はどこかぼんやりとした光を灯す深紫の瞳で天井を見やる。
「お目覚めになられましたか?」
「ッ!?」
気だるげに息を吐き出すその横顔に、声をかけたのは重衡だった。途端に弾かれたように上体を起こし、けれどすぐに血の気を引いた頭が傾ぐ。急激な動きに体がついてこなかったのだろう。呼吸を乱し、眩暈でも起こしたのか、慌てて頭を抱えながら小さく呻く苦悶の表情は、悲しいかなあまりにもその幼い相貌に馴染んでいる。
「ああ、申し訳ございません。驚かせるつもりはなかったのです」
言いながら背を支え、呼吸を落ち着かせるように擦ってやれば、薄目でいかにも不審そうに周囲を見回す深紫の瞳。
「……あの、女童は?」
「お召し物を取り替えに参っておりますよ。ご案じなさいますな。何事もなく」
「………お前、五郎か?」
「おや。やはり、おわかりになられるのですね」
くすくすと、楽しそうに嬉しそうに笑い、重衡は乱れてしまった知盛の単衣を直してやりながら胡乱さと驚愕を混ぜ合わせた幼い瞳を覗き込む。
「今は、名を重衡と申します。思いがけず懐かしき日の兄上にお会いできて、大変嬉しく思いますよ」
事情をどこまで説明したものかと惑う周囲の困惑などどこ吹く風。けろりと嘯いた重衡の言葉に、しかし返されたのは達観と諦め、そして納得の表情。
「俺は、死んだのか」
声は静かで、感情による揺らぎなどほとんど滲ませていなかった。ただ、ほんのわずかな悔しさだけが苦々しく目許を彩る。
驚いたのは当人を除く面々である。唐突な言葉に唖然と息を呑み、目を見開いてしまう。
「なぜ、そのように思われるのです?」
「体が苦しくない。見知らぬ場所にいる。俺より年上の弟がいる。これほどの“ありえない”状況の揃う現実なぞ、あるものか」
「夢、とは?」
「笑止」
淡々と状況証拠を並べあげた年齢不相応の冷静な声が、あまりに深い嘲弄に歪む。
「医師も薬師もこぞって匙を投げたのだろう? ……隠したところで、隠しきれるものか。かくな、憐れみと、それを思う己に酔った輩の、優越に浸る瞳なぞ」
ぞっとするぐらい酷薄に嗤い、知盛は嘯く。
「夢には違いなかろうよ。なればこれは、末期の夢。信心なぞ欠片もない身にも慈悲を垂れられるとは、祈祷師どもの言うことも、あながち嘘ではないということか」
そして、ふいにやわらかく微笑んで知盛はゆるりと身を乗り出す。
「病がうつることを厭われてから、久しく一門の誰にも会うことがなかったが……お前は、このような姿となるのだな」
膝立ちになって重衡に視点を合わせ、知盛は遠慮なくぺたぺたとその頬やら肩やらに触れていく。
「兄上は、私なぞよりよほど麗しくおなりですよ」
「長じられたのなら、見掛けは似ていたやもしれんな。似るのは見目だけにしてくれと、誰もが言う」
わずかに震える声で重衡が言い返すものの、知盛の口調に混じる皮肉は消えない。慣れた調子であっさりと切り返し、ようやく満足したのか、今度は周囲を改めて見回してからその瞳を大きく見開く。
Fin.