朔夜のうさぎは夢を見る

いつでも薬師 〜弁慶さんはわかった気がした〜

 幼さゆえの無邪気さという名の暴力によってありえない状態にされた自室の整頓を終え、簀子を歩く弁慶が見つけたのは昼寝をしているらしい平家の病弱な少年だった。
「おやおや」
 常であればこんな人目のあるところで、こんなにも無防備に寝こける姿など見られるはずもない。薬師として平家に出入りしていた頃だって、どれほど清盛が薦めても、どれほど時子が諭しても、知盛は決して弁慶を自邸に立ち入らせることはなかった。腕が良いと言えば他にも腕利きの薬師はいるといい、薬湯がよく効くと言えば奴が煎じたと思うだけで悪化しそうだとまで言い放たれた。
 後から思うに、あれは純粋に弁慶の存在を警戒し、疑っていたという理由もあったのだろうが、同時にすべてを知っていたがための警戒ぶりだったのだろうと行き着いた。彼自身が口にしたことだけでは彼が何をどこまで知っていたのかはいまいち計り知れなかったが、少なくとも弁慶が龍脈に関して浅からぬ関わりを持っていたことは察しているはず。その上で、万が一にも神通力の器たるに遭遇されかねない彼の邸になど、意地でも立ち入らせたくなかったのだろう。
「こんなところで寝ていては、風邪をひいてしまいますよ」
 自分の体質はうっかり自嘲と皮肉と嫌味が際限なく口を衝いてしまうぐらい正確に把握しているらしいのに、なぜこんなにも体を労わることに無頓着なのか。あるいは、もはや『死んでいる』のだから構わないとでも思っているのか。簀子にころりと横たわり、こんなに近くまで寄って声までかけているというのに、目を覚ます様子がない。


 知盛が覚えているかどうかは知らないが、弁慶はこのぐらいの見かけの知盛を知っている。叡山に稚児として放り込まれていた時分のことだ。退屈にかまけて寺を抜け出した際に、何の用があったのか、それともただの気紛れだったのか、わざわざ山歩きをしているところに出くわしたことがある。
 互いに名乗りを上げることはなかった。弁慶としては名を知られて害になることは別段なかったが、寺に篭もっていなければならない自分が抜け出していることをわざわざ知らせやすくする必要もない。知盛は見るからに上等な狩衣を纏っていたためすぐにどこぞの公達の子息だろうことは察せたが、まさかかくも長い付き合いになるとは思いもしなかったものだ。
 退屈に厭き、暇に倦むのは今も昔も変わらない。一体彼の性格がどこでどうここまで捻くれたのかは知らないが、根底の部分は変わらない。あの頃も、知盛はひどく退屈そうな瞳をしていて、ひどく疲れきった空気を引きずっていた。
「寝る子は育つ、とは言いますが、寝過ぎは病の可能性もあるんですけどね」
 すよすよと繰り返される寝息は規則正しく、どこまでも健やか。かけられている水干は敦盛のものだから、きっと起こすのが忍びなくてそっとしておくことを選んだのだろう。暇さえあれば寝ていると将臣が盛大に文句を言っていたのも知っているが、弁慶としてはこうして体力を温存し続けなければならないほど体が参っているのではないかという発想が先に立つ。起きない方が悪いのだと胸中で小さく苦笑しながら、差し伸べた手は慣れた調子で額を探り、首筋で脈を測る。


 脈を取りついでにさっと全身を流れる気脈を辿ってみれば、朝方よりはだいぶ流れの起伏が穏やかになったようだった。おそらく、この騒動の原因は京の北にて水気を司るかの尊き存在であろう。そこはヒノエに同意するが、理由がさっぱりわからない。重衡に語っていた様子からして、当人が死を覚悟するほど思い病に倒れている頃だろうに、あえて調子を整えて、こんな、わけのわからない未来に放り込まれる理由など。
「……昏い目を、していますね」
 つらつらと物思いに耽っていたからか、ふとかけられた声には過ぎるほど大袈裟に反応してしまっていた。びくりとはねた肩に連動して掌が浮く。だが、その甲に添えられた小さな手が、離れることを許さない。
「まるで、この世すべての悪でも見たような、そういう眼だ」
 とろりとほどけた口調と視線は、彼がまだ半分眠りの世界にたゆたっていることを知らせてくれる。だというのに、言葉は容赦なく弁慶の胸に突き刺さる。
「あなたは俺に似ている……好きになりたいのに、醜いものばかりが視えてしまう」
「………僕達は、会ったことがありましたか?」
「さぁ? 遇うも別れるもうたかたのえにし。憶えているコトは多くとも、覚えているモノはほとんどありません」
「それでも僕は、あなたを覚えていますよ」
「俺もきっと、あなたの目は忘れないでしょう」
 噛み合わない会話が、けれど楽しかったのか、どこか覚えのある薄い笑いを浮かべて喉の奥でくつりと笑いを転がし、知盛は瞼を下ろす。
「こんなところで寝ては、風邪をひいてしまいますよ」
「それもまた、一興」
 再び病を得れば、戻れるかもしれない。呟きは寝息に紛れてそよりと掻き消されたが、添えられていた小さな手が床に落ちる音で遮られはしなかった。咄嗟に掬い上げた細く小さく頼りない手に、弁慶は少年の未来を懐かしいと思う。
「戻りたいのは、“あなたの”在るべき日々ですか? それとも、“彼女と”在れる日々ですか?」
 小さな問いに、答えは返らない。ヒトには及びもつかないいと高き方々は、本当に粋で残酷なことをする。なんとなく視えた気のした絡繰りの一端に、弁慶は改めて神なるものの遠さを思い知る。

Fin.

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