いとしいとしと言ふ心
拾うことのできた単語から、なんとなく事の顛末は読み取れる。だが、あまりにも予想外に過ぎる事態の推移に、は理解が追いつかない自意識をどこか他人事のように感じ取っている。
「」
ふと、呼ぶ声に首を巡らせれば、宵闇に沈む室内にあってひどく静かな双眸が、のことをひたと見据えていた。
「話は、聞いていたな」
「はい」
「理解は出来たか?」
「わたしが、泰衡殿の義妹になる、と」
奥州藤原氏の、総領の義理の妹に。後ろ盾も何もない、どこの馬の骨とも知れぬ身分から、それは信じられないほどの飛躍である。既に話が先方の棟梁にも通っている様子からして、断ることはできない。無論、断る理由はないし、確かな後ろ盾をえられればそれだけこの世界で生きやすくなる。それは素直にありがたいのだが、さらにそこに続いたいくつかの単語が、に混乱の渦から脱することを許さない。
「藤原泰衡殿の妹にして、藤原秀衡殿の娘であるお前を、“平知盛”たる俺が娶る――これならば、誰も文句を言うまい」
満足そうに目を細め、床から書簡を拾い上げると、知盛はそこに記されているいくつもの名前に指を滑らせる。
「お前にこれ以上の名を負わせるのは好まぬが、まあ、奥州のあの一族ならば、預けるに値しよう」
「……本気、ですか?」
「本気、とは?」
「本気で、わたしを、そのような……だって、これまでにもたくさん、縁談は散々に」
確かに一大勢力である平泉の嫡流という後ろ盾を得てしまえば、それなり以上の地位は約されたも同然であろう。だが、それで京の貴族達が納得するとは思えない。面倒だと言いながらもそれなりにあちらこちらへと通っていたのは、無碍に断ることのできない話ばかりだったからだと、は知っているのだ。
“平知盛”の名は重い。平家一門の、次代を担う中心人物。還内府が重盛その人でないことは、ある程度以上の地位にある貴族達の間では暗黙の了解。よって、平家における一番の重鎮は知盛であり、その知盛の正室をと狙う貴族は少なくなかった。いくらこの世界における婚姻の主導権が男性側にあるといえ、今後を見据えた上で、知盛はもっと政略的な意味での婚姻をこそ重視すべきだというのに。
「わたしは、知盛殿にとっての益にはなりえません」
だから諦めようと思ったのだ。変わらず眠りを預け、安らいでくれるのならそれでいいと。お前が欲しいと、そう言ってくれた。そう言って、そして手元に置いてくれるのならそれで良い。政治的に重みを持てない立場であることを知っていればこそ、許される精一杯をせめては手放さないように、それだけを願うつもりだった。
気遣われていることは知っていた。そうは思っても、割り切れていない自身を自覚していた。けれど、彼が何よりも大切に守ろうとする一門の存在と、そこに向ける無償の愛を知っていればこそ、その思いを邪魔することはできなかった。そう自分に言い聞かせ、悲しくて寂しくて悔しい思いを飲み込みながら、夜毎移ろう様々な香に唇を噛んでいたのに。
向けられる思いが嬉しい。向けられた執着が嬉しい。けれど、それに応えきれない自分を知っているから、不安になる。こうして政治的な意味での後ろ盾まで用意してもらって、なのに自分は知盛に対して何も返せるものがないのだ。
「何を弱気になっている」
不安と葛藤と歓喜と驚愕と。あらゆるものに翻弄され、うまく思考がまとまらないの想いの最奥に、そして知盛は遠慮容赦なくずかずかと踏み込んでくる。
「泰衡殿のお言葉を、聞いていなかったのか? 俺に娘を押し付けんとする連中も切りがなかったが、お前を欲しがる連中も、同じく数多いるのだぞ」
月天将は、南都鎮圧の英雄。南都を護るというのは、単なる寺社仏閣を護るのとは意味が違う。かの地にあるのは、総国分寺たる東大寺をはじめ、寺社としての格も最高位なら、擁する兵力、掌握する荘園など、あらゆる意味で強大な勢力なのだ。その彼らを抑える力として、はじめて朝廷以外に単独で力を持ったのが月天将である。
奇跡を操るという意味でも、南都守護の英雄として信奉を集めるという意味でも、月天将は不可侵の存在。平家という名を切り離しても、女だてらに戦場を駆けるという瑕を持っていても構わない、あまりにおいしい政略の道具なのだ。
「俺は、お前を恋うと言った。そして、“平知盛”にとってもまた、“月天将”は必要な存在。お前自身が思う以上に、お前は重い存在だ」
淡々と、あるいは傲然と。言い切り、知盛はふとの顎に手指をかけ、その視線を自身の双眸の正面に固定する。
「既に話はつけてある。お前が奥州藤原家の猶子となることは決定済みだ」
真っ直ぐに覗き込む瞳の弾く光は、強い。
「その上で、俺は改めて、お前を恋う文を届け、許しを請い、三晩お前の許へと通おう……。拒むなら拒め。俺の正室とならば、これまで以上に、お前は俺個人のみならず、“平知盛”の名にもからめとられるぞ」
あまりにも眩く燦然と光を放つ存在感に呑まれ、息を詰めながらはこの上ない口説き文句に酔いしれる。待ちわびていた以上の言葉をこうしてとどめのように与えられるから、どれほど放っておかれても、その無言の信頼を信じ続けていられるのだと。彼はわかっていてやっているのだろうか。
Fin.