いとしいとしと言ふ心
それぞれの思惑が複雑に交錯する中で、そしてその中心人物だろう知盛は、さすがに敬愛する実母が自邸に逗留していることもあって少しは気を配ったのか、それまでの頻繁さが嘘のように夜の外出を控えている。代わりに重衡や将臣と共に酒を飲み交わしているらしいのだが、呼ばれることがないため、あいにくとには彼らが一体どんな会話を交わしているのかがわからない。
どこに行っても、どんな花を散らしても、結局はの褥に潜り込んで抱き枕にしながら睡眠をむさぼる習慣は変わらない。その不変性を喜ぶ反面、夜毎に知盛から漂うそれぞれに華やかな、あるいは艶やかな香りには、複雑な思いが胸をよぎる。
文化の違いは理解しているつもりだった。この世界は一夫多妻制。まして、知盛はその立場上、なるべく広い人脈を保つ必要があり、その有効な手段の一つが夜闇に紛れての人脈の確保なのだ。わかっているから、には何も言えない。彼の愛するものを同じように愛し、守りたいと願ってしまった以上、そのために必要だと判じた手段を否定することはできない。だが、ならばせめて何か言葉が欲しいと思ってしまうし、そんな自分が情けなくて悲しくなる。
何も言わないのは信頼の証なのだと知っている。言わなくてもわかっているだろう、と、その無言での訴えこそが彼からの一種の甘えなのだとも知っている。だから、なるべく彼にとっての良いオンナであろうと思うのに、理性では納得できても感情面がついてこない。信じているのに信じ切れなくて、動じずにありたいのに揺らいでしまう。そのすべてを覆い隠して凛としていたいのに、気遣わしげな視線やら態度やら言葉やらを周囲に投げかけられるたびに、自分で定めた境界線さえ守れていないことに、ほとほと情けなくなってしまう。
望美が遊びに来てくれる頻度が上がったし、将臣は事あるごとに顔を出して他愛のない会話を交わしてくれる。どこぞに出かけたのだと言っては重衡は花やら小物やらを土産に持ってきてくれるし、京にいる間にとそこここに出かける時子は、必ず同伴者にを指名する。この上ない優しさにくるまれていることをしみじみと実感して、これ以上何を求めるのかと自戒する。そして、変わらない知盛の様子に、歯噛みする。
「憂い顔だな」
そしてそんな新しい日常の中に、ふと紛れ込んできた新しい存在がある。淡々と、どこか不機嫌な様子の声の指摘を受け、は酒器と肴の用意のために俯けていた視線を思わず巡らせてしまう。
「新中納言殿のご寵愛を一身に受ける、京にて最も幸せな女君かと思いきや、そうではないらしい」
「お言葉ですが、幸福とは、過ぎれば不安をこそ齎すものでもございます」
「では、その憂い顔は幸福ゆえの不可抗力と申されるか」
「わたしが不幸だなどと申し上げては、いったいどれほどの姫君から恨みつらみを買いますことやら」
夜闇を梳き流したかのような漆黒の美しい髪を無造作に背に括り、端座する青年は奥州藤原氏の総領であると名乗っていた。ヒノエとは違って京に身を置く彼とは何かにつけて話を通す機会が多いらしく、知盛が出かけることも、こうして出迎えることももはや日常茶飯事。大概は知盛がいる時間帯に訪ねてくるのだが、早く帰れると言っていたはずの主は、何事か突発的な事項にでも見舞われたのか、日が沈もうという時刻になってもまだ戻らない。
将臣ほど気さくではないといえ、男は男でに興味を持っていたらしい。鋭さの向こうにやりとりの軽妙さを楽しむ気配を滲ませ、薄く目尻だけで笑う仕草は知盛にどこか似ている。
「数多の姫君から恨みを買っているというご自覚はおありか」
「それこそ、不可抗力であるとは思いますが」
別に、が買いたくて買っている恨みではない。ただ、知盛がこれと定めた対象に向ける執着の深さを体現する存在のひとつであればこそ、その執着を求め、得られない相手から恨まれるのは自然な流れというもの。そうして恨みを向けてくる相手にこそ向けたい逆恨みもあるのだが、言っても詮無いことなので、は口を噤むという選択肢を選び取る。
「新中納言殿ご寵愛、と。その肩書きが重いのであれば、俺が娶ってさしあげようか?」
ようやく酒器の用意を終え、主がいない場合は戻るまでもてなしをするというこれまでに築かれた暗黙の了解にのっとって瓶子を持ち上げたは、素直に杯を差し出しながらの不意打ちの一言に、危うく酒を溢れさせるところであった。びくりと肩を揺らし、あまりに予想外の発言に、まじまじと相手を見つめ返してしまう。
Fin.