朔夜のうさぎは夢を見る

いとしいとしと言ふ心

 ぽかぽかと降り注ぐ陽光の下、堂の一室で他愛ないおしゃべりに興じる人影が三つある。花の盛りを過ぎ、すっかり葉桜と化してしまった御室桜が目に眩しい。仁和寺の一角にある離れにて、相対するのは安徳帝の名を贈られた先の帝と、その祖母たる尼君、そして彼らの護衛をと任された月天将である。
 時子が福原の様子を語れば、言仁は日々の徒然を語り、は屋敷で聞き知った噂話を語る。祖母と孫の面談に自分が紛れるのは、と、はじめは固辞しただったが、当人達から是非にと笑いかけられては断りようもない。できるだけ失礼のない、けれど退屈させずにすむ話題を、と選ぶものの、どうしても共通の知っている相手に話題が収束していくのは避けえない。
「ところで、胡蝶殿。前々から聞いてみたかったことがあるのだが」
「わたしに答えられることでしたら、何なりと」
 世に新院と呼び称される子供のきらきらとした声が、話題の切れ目の穏やかな静寂に響き渡る。
「知盛殿との間には、まだ子がならぬのか?」
 静寂が、沈黙へと成り代わる。気遣わしげにそっと目を向ける時子の気配を感じながら、は頬が引きつるのをかろうじて押し殺し、困ったようにはにかんでみせる。
「先日、知盛殿にも聞いたのだ。だが、男の身ではわかりえぬことと、そう言われてしまってな。せっかく和議も成ったのだし、そろそろ、次の慶事があればいいな、と思うのだ」
「……新院は、知盛殿の御子をお望みですか?」
「うむ。知盛殿が女性に大層人気であることはわかったが、いつまでもふらふらとしているのは良くないと思う。私のことも、宮のこともとても慈しんでくれたのだ。きっと、子をもうければ落ち着くだろう?」
 年若いという言葉にさえまだ届いていないだろう甥にまでその華々しい夜の戦歴を憂えられるのはいかがなものなのかと。場違いにもそう思ってつい失笑してしまうの視界の隅では、時子もまた困ったように呆れたように、吐息に笑声を紛れさせている。


 言仁はともかく、宮と呼ばれた存在を知盛がいたく構っていたことはも知っている。言仁の腹違いの弟である二ノ宮は、一時知盛の邸に逗留していたことがあるのだ。宮の乳母が体調を崩したがゆえの処置だったらしいのだが、子育て経験の豊富な女房の揃う自邸にて預かって養育係じみた役回りに徹している姿は、意外にも板についていた。
 重衡や徳子をはじめ、弟妹やら年下の従兄弟やら、そういった存在に囲まれていたがゆえの経験値らしいが、子供が嫌いではあのようには振舞えないだろう。子供さえできれば良い父親になり、夜遊びの激しさも落ち着くだろう、との言仁の指摘には、も大いに同意を示すところである。
「しかし、知盛殿の御子を、と望まれるのでしたら、まずはご正室を定めますようご進言申し上げませんと」
「なぜだ? 胡蝶殿は、知盛殿の奥方なのだろう?」
「わたしは一介の女房にして、配下たる将に過ぎませぬ」
「そうなのか?」
 かわいらしい思い込みをそっと修正し、は仄かに苦笑を送る。
「知盛殿は、一門の次代を担う御方。わたしのような生まれの知れぬ者ではなく、いずこかの貴族の姫君を娶られるのが、筋というものでございます」
「……だが、私は知盛殿と胡蝶殿が一緒にいるところを見るのが、とても好きだぞ?」
 あどけなく、飾りなどなく。こてんと首をかしげながら真っ直ぐに差し向けられた言葉に、はただ瞳を歪め、静かに指を床に置いて頭を下げる。
「もったいなくもありがたきお言葉。そのお言葉を胸に、この胡蝶、いっそうお勤めに励む所存にございます」
 まだ何事か言いたげだった幼き新院は、けれどそれ以上は何も言わず、小さな手でゆるゆるとの頭を撫でてくれた。


 それからさらに他愛のないおしゃべりに興じ、牛車にて共に知盛の邸に戻る道中、ゆったりと呼びかける時子の声に、は膝へと落としていた視線を静かに持ち上げた。
「知盛殿は、不器用な方なのです」
 ごとごとと、車輪の回る規則的な音にともすれば紛れてしまいそうな、それはひどく遠い声だった。遠く、何かを懐かしむ声。声の深さに、はそっと睫を上下させることでのみ反応を示す。
「不器用で、けれど情の深く、そして思慮深い方です。此度の件も、何がしかの思惑あってのことでしょう」
「存じ上げているつもりです。そろそろ何とかせねばなるまいと、そのように申されているのを、うかがったことがございます」
 無碍に突っぱねることはできず、唯々諾々と呑むには提示される選択肢が多すぎる。知盛個人としてではなく、平家の事実上の総領である平知盛として。これ以上独り身を貫くことが不可能であることは、知盛こそが最も身に沁みていただろう現実。
 面倒くさそうに、鬱陶しそうに、諦めたように。なんともつまらなそうな視線で送りつけられる文の類を撫でている姿を、は間近で見てきたのだ。
「いずこの御方と結ぶのが最も良い道なのかを探っておいでなのだと、推察いたしております」
「あなたは、それで良いのですか?」
 感情を削ぎ落とした声には、宥めるような穏やかな、憂えるようなしめやかな声が返された。けれど、には返せる言葉などひとつしかない。
「変わらずお傍に置いていただけるなら、構いません」
 それ以上を望んでも、だって手に入らないことを、はあまりにもきちんとわかりすぎているのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。