いとしいとしと言ふ心
それこそは平家一門が知盛とを見守り、あるいはその関係にやきもきさせられるにあたり、常に葛藤し続けていた矛盾であった。
知盛の欲求はわかる。何事においてもそつなく、隙なく、完璧に振舞い続ける武将にして公達である男が唯一と定めたしがらみを脱ぎされる場が、彼女なのだ。
重盛の死をはじめ、その心が揺らぐ時には彼が黙って彼女の隣で傷に耐え、あるいは傷を癒していたことを、知る者はなくとも察する者は多い。その存在を失った心の内を察することのできた者はごく一握りだったが、再び手元に置くようになった知盛を見れば、失われていた折の危うさが際立つ。
いずこにあっても、いつ何時であっても公人として気を張り詰めさせていなくてはならない彼が、緊張を取り去り、ゆったりと寛ぐことのできる場であると。そう知っていればこそ、知盛がにこれ以上の立場を与えたがらないことを、強く咎めることはできない。“平知盛”が腹心たる月天将にして、その寵愛を一身に受ける蓮華の君と、そこまでの立場を公にしているだけでも、彼にしてみれば過ぎるほどの譲歩であることを、わかっている。
「まあ、どっかから正室を娶るのが妥当だってのは知ってるけどね? だとしたら一体どこの家とよしみを結ぶのかを、オレとしても把握しておきたいわけ」
だからあえて呼び出したのだと、ここに至ってようやくこの不思議に気安い酒宴の主目的を披露したヒノエに、将臣は隠しもせずに渋面を返す。
正月の慌しさも通り過ぎ、ようやく一息つけたからという理由で福原から将臣達が京へとわざわざやってきたのは、時子の願いによるものだった。知盛は滅多なことでは京を離れられない。だが、だからといって同族愛に満ち溢れるかの一門は、めでたき席に和議の立役者の一人にして今後の平家を担う中心人物でもある知盛がいないことを当然だと受け止めはしない。福原に呼び立てることが無理だとしても、何とか新年を祝う慶びを分かち合えないかと画策した結果が、この時期を外しての京訪問という妥協案だったのだ。
ならばちょうどいいとばかりに、相変わらず身軽にひょいひょい熊野を抜け出しているらしいヒノエが景時に邸の一室を借り受け、ちょっと話を聞かせろと、将臣と重衡を指名して呼びたてた。きっかけは、そんなものだったのだが。
「あいにく、熊野も鎌倉も平泉も、政略結婚に使えるような年頃の嫡流の娘がいない。どこの貴族とよしみを結ぶつもりなのかは、嫌でも把握しないとマズイ」
「そういうことでしたら、こちらとて思惑は同じこと。散々に打診を受けていると聞き及んでおりますが、近く身を固めるおつもりはおありでしょうか?」
「オレよりアンタの方が先だろ?」
「兄上が身を固められてから考えるべきと、心得ております」
近況報告にはじまり、知盛との間を取り持つことにそれなりに関与したがゆえの愚痴と詰りかと思いきや、一気に政治色の強くなった遣り取りに、将臣は表情を歪め、九郎は眉間に皺を刻む。
家主たる景時は、折悪く鎌倉に下向している。とはいえ、勝手知ったる他人の家と称すよりもなお縁深い元八葉の面々にとって、梶原邸は実に気楽に集える場所である。時間と、既に休んでいるだろう朔や望美を考えてそれなりに声を落としてはいるが、どこよりもあけすけに、建前よりは本音の色合いの強い会話が織り上げられていく。
「別に、当人同士が納得済みっていうなら、オレだってこんな野暮な口出しはしたくないよ? どっかと政略結婚ってのは、どうせ似たり寄ったりの立場なんだしさ。けど、どう考えたって我慢に我慢を重ねてるって、神子姫様が随分とお怒りだったし」
「あー、もしかして、それってアレか? 女同士だから話せる本音って?」
「そこまではわからないけどね。でもまあ、女の勘ほど怖いものはないよ」
「そうですね。こと色恋に関して、女性は恐るべき慧眼を発揮なさいます」
「重衡に言われるとか、どんだけ重いんだよ……」
しみじみと、女慣れしていますと態度も恋愛遍歴も如実に語る二人が揃って認めるのだから、望美から齎されたその情報は、にとっての真情であると見なしても間違いないだろう。邸に逗留する自分たちをもてなしてくれる彼女からは一切感じ取れなかったと、しみじみ思い返しながら、将臣はもう一度溜め息をつく。
野暮な口出しをしたくないのは同感であり、いまや内外に対してあまりにも大きな影響力を持ちすぎる二人には、私人としての思いよりも公人としての立場を優先させてほしいというのも紛れのない本音。だからこそ、手っ取り早いのはをどこかの貴族の猶子としてもらい、その名を負った上で知盛と正式に婚姻を結んでもらうことなのだが、それはそれで難しい。何せ、彼女はこの世界のしがらみからことごとく乖離した姫将軍。女だてらに刀を佩いて戦場を駆ける娘など、貴族の面々からすれば決して自分の懐に招き入れたいとは思えないのが常識なのだ。
「いっそ頼朝の娘とか、そういう話になってくれりゃ楽なんだけどなぁ」
「いや、それはさすがに」
「ええ、無理が過ぎると申しますか」
「……俺も、それは難しいと思うぞ」
「わーかってる。言ってみただけだ」
武家の棟梁ならば受け入れてくれるかとも思うが、相手が相手である。さすがに、いくら和議を結んだとはいえ散々苦汁を舐めさせられた当人を猶子に迎えることはしないだろう。たとえ相手が諾と言ったとして、知盛が承知するはずがない。話を出した途端、うっそりと口元で嗤いながら、目だけは殺気立たせて滔々と婉曲的に嫌味と皮肉と罵詈雑言を叩きつけてくる様が目に浮かぶようである。
「ウチで引き取ってやりたいのも山々なんだけど、中立を貫いた以上、オレの代で源平のどっちかに傾くのは賢くない。引き取って、それでが九郎に嫁ぐとかなら別だけどさ」
「馬鹿を言うなッ!」
「冗談でもそんなこと知盛には言うなよ? それこそ、本気で殺されっぞ?」
蒼くなり、けれど口をつく言葉は正反対に、天地の青龍はヒノエの提案に拒絶を示す。だが、お蔭で八方塞であることもまた現実なのだ。
「だから、賢くないって言ったじゃん」
知盛にを手放す気がないだろうことぐらい、ヒノエとて重々承知の上である。何を想像したのか、血の気の引いている源平両家の若き重鎮達にさらりと言い返し、その様子を愉しげに微笑みながら見守っている重衡に視線を移す。
「とにかく、アレが以前と同じ単なる夜遊びなのか、品定めなのか、その辺だけでもはっきりさせて欲しいってのがこっちの本音」
「そうは言われましても、兄上の思惑など、私にわかろうはずもありませんので」
と、困ったように眉根を寄せ、けれど重衡もさすがは知盛の実弟。さらりとそのままの音調でとんでもない提案を口にする。
「それとなく、母上のお耳に入れておくことといたしましょう。いい加減に身を固められますようにと母上に背を押されれば、兄上とてそろそろ腹を括りましょうゆえ」
「重衡、お前、胡蝶さんをどーすんだよッ!?」
「いずれの結果に落ち着くにせよ、中途半端なままが最も胡蝶殿のお心を痛めましょう」
どうにか立場の弱いの後ろ盾を、と考えていた自分とは真逆を向いているような重衡の発言に、将臣は目を見開いて食ってかかる。しかし、重衡はごく静かに視線を伏せただけで、硬い声は変わらない。
「胡蝶殿をあくまで政治的な思惑から切り離しておかれたいのなら、それ以外に方策はございません。慣れぬ間はお辛いやも知れませんが、早々に決着をつけませんと、胡蝶殿に矛先が向くのも時間の問題です」
「知盛をダメにする悪女って?」
「残念ながら、そういった声が上がるとすれば、一門の内からでございましょう」
しみじみと吐き出された溜め息に、九郎は表情を曇らせ、将臣は唇を噛み締める。
「……なんで、あの二人だけこんなことばっかなんだよ」
呻くように絞り出されたやるせない文句を慰めるように、空になった杯に、九郎は黙って酒を注ぎ足してやった。
Fin.