いとしいとしと言ふ心
なんとか朝廷での制度が整い、貴族間での騒ぎが落ち着いた頃、では早速とばかりに持ち上がった話題がある。すなわち、独り身の各勢力重鎮に対し、そろそろ正室を据えてはいかがか、と。
例に漏れず、平家にもその話題はひっきりなしに届けられる。話の内容自体は珍しくもなんともないし、かなり前からそういう打診はあったのだ。知盛は、常識的に考えれば婚期を逃して久しい。ちょうど平家が権勢を誇っていた頃に適齢期だったはずの新中納言は、夜遊びを存分に楽しんでいた一方で、いかな花を散らそうとも、その衣に必ず染みていた香りがある。
二夜と続く移り香がないはずの男が纏う唯一の例外たるそれは、菊花のほのかに滲む安息香。誰の目にも触れさせまいと隠されていた香の持ち主は、今や京に知らぬ者のない平家を代表する姫将軍である。
彼女は南都鎮圧の英雄。誰の目にも明らかなる、知盛が最も信頼を寄せる配下にして最も気安い愛妾。その共通認識があればこそ、誰も彼から彼女を引き剥がそうとはせず、その代わりに己が娘を彼の正室にと求めるのだ。
復位し、その有能さゆえにと再び中納言の位に戻された知盛は、都落ちという瑕を負ってなお魅力的な存在である。西国を中心に治める平家の筆頭であり、意外にも情が深いことは月天将にして蓮華の君が変わらず傍に置かれ続けていることによって証されている。政治的な思惑によって繋ぎを取りたいと願う貴族達からも、どうせ嫁ぐなら良い男の許へと願う姫君達からも、まさにうってつけなのが知盛の存在なのだ。
無論、重衡や将臣もまた同じ理由で多くの恋文だの縁談だのに埋もれて生活をしているのだが、なにせ知盛が未婚であるという事実は大きい。彼を差し置いて自分達がというわけには、と、そう言ってしまえば、反論などたやすく封じ込められるのだ。
それでも、知盛のへの溺愛ぶりを見知っていればこそ、将臣をはじめ、平家の面々はそれらの話題をさほど重要視してはいなかった。いずれ何らかの形で彼女の存在と立場を定義しなおす必要があろう、とは思っていた、その気持ちに多少の焦りが生まれた程度であった。以前と変わらず、知盛がまたふらふらと夜毎にあらゆる花を散らしているという噂を聞くまでは。
片やこめかみをひたと押さえ、片や深々と溜め息を吐き出して。最新の派手な噂からはじまり、さかのぼれる限りの事例を聞いた将臣は「あの野郎」と呻き、重衡は静かに瞼を下ろした。
「どういうつもりなんだよ、アイツ」
「どうもこうも、味見して歩いてんじゃないの?」
「あながち否定できないところが、また、なんとも言葉にしがたいものですね」
覚えている限りの噂を披露してくれたのは九郎だったが、評を下すのはヒノエが一番早かった。しみじみと締め括る重衡の言葉は、血の繋がった、そして誰よりも近しいだろう兄弟のものだからこそ重苦しい。
「だが、いいのだろうか? 内裏ではもっぱら、知盛殿がどちらの姫君に落ち着くかという噂が立っている。このままでは、殿が、その……」
「後ろ盾のない身だからね。こればっかりは、アンタ達がもっと積極的に動いてやらないとマズいんじゃないの?」
「ンなこと言ったって、養女として引き取ろうかって類の申し出は、全部知盛に蹴られてんだぜ? 後ろ盾って言われても、どうにもしようがねぇよ」
「兄上は、胡蝶殿をかくな思惑の絡む場に出すことを、ひどく厭われますから」
噂を拾ってきてくれた九郎がおずおずと状況を憂う言葉を口にすれば、ヒノエがさらに畳み掛ける。だが、過去に一門の内で出尽くしている政治的な意味合いを篭めた申し出は、ことごとく知盛の手によって握りつぶされているのだ。
淡く苦笑を煙らせた重衡の言葉に何を思ったのか、将臣は遠い目をして深々と溜め息をつく。
「自分のモンだ、っつー牽制はしてんだろ?」
「まあ、噂は相変わらずってヤツだよ。遊んでも遊んでも、結局は二夜と続かないらしいからね」
「そうだな。殿に文が届かないというのも、有名な噂だ」
「……それはまた、随分とあからさまだな」
「以前よりも手厳しくなったようでございますね」
「だから、それが逆効果なんだってば」
トントンと膝を指で叩きながら、ヒノエは続ける。
「そりゃ、お蔭でが知盛のモンだって認識は浸透してるよ? けど、逆に“その程度”だって認識まで浸透してるんだよ」
「その程度?」
「知盛が個人で所有する、ただの愛妾。あるいはいっそ遊び女の延長ぐらいじゃないの? 相当、軽んじられてる」
「………アレの、どこをどう見たらそんな認識になるんだよ」
「だーかーら、見せないからそう見えるんだよ。当人は嫌がるだろうけどね。ヤツが完全に“個人”でいられる場なんか、存在しないんだぜ?」
立場が重ければ重いほど、その存在は私のためではなく公のためと位置づけられる。知盛が何をどう考えようと、振舞おうと、それはすべて“平知盛”のものであり、決して一個人としてのものにはなりえない。彼の言動も、思いの向く先も、やがてはもうけることを暗黙のうちに義務付けられている子供も、すべてはしがらみの一端。よって、知盛がそこからを外すのだと振舞えば、その立場は自然に知盛が所有する馬だの刀剣だのと同じと見なされ、家長をはじめとした主要な郎党よりも政治的な弱者と成り果てるのだ。
Fin.