それは眠りを醒ます声
興味深く見やる鋭い視線の先、娘はゆるりと手の内の鱗に目を落とした。
「それは、白龍の逆鱗、とやら……らしい」
「夢の彼方で得てきたとでも、おっしゃるのですか?」
「察しが良いじゃあないか」
震える声に満足げに返し、知盛は喉を鳴らす。けれど、それはほんの一時のこと。すぐに細められた双眸は、ただ真摯な光を放って娘に据えられる。
「………かえりたい、か?」
声は静かで、問いは深かった。思いを殺し、感情を削ぎ、真理を追究するそれは人ならぬ存在にも近い問答。ぞくりと背筋を駆け上がるのは畏怖。徒人では決して纏い得ない深く昏い存在感をまざまざと振りまき、銀色の獣は問いただす。
手の内の逆鱗を握り締め、強く目を瞑って思案する様子をみせてから、ふいと娘は表情を消した。迷いも、苦悶も、希望も絶望も何もない。ただひたむきな哀しみだけが残される。
開かれた瞳は、凪いだ湖面。蒼黒に映りこんだ最後の桜吹雪が、ちらちらと揺らぐ。
「在るべきではないわたしが、ここにいるのは許されざることですか?」
視線と共に落とされたのは、問い。
「確かに、元の世界は恋しいです。両親がいます。兄弟がいます。友人もいます。これから出会うはずだったろう多くの人がいて、これから見るはずだった世界があります」
でも、と、続く声が静かに揺れる。
「わたしは、ここで生きると決めました。名を、絆を、思いを……罪も、咎も得ました。わたしは初めて、生きていることを日々感謝し、感謝される世界を知りました」
それは、いつか娘が語っていたこと。月の都に比べて住みにくかろうと揶揄混じりに問いかけた主に、生を実感できるこの世界は素晴らしいと笑っていた。だから、帰れないことに哀しみはあれど、悔いは残さないと。
「臆病者と、卑怯者と罵っていただいても結構です。それでも、たとえ帰れたとしても、わたしはあの世界で『忘れられているかもしれない』ことが……怖い」
かたかたと膝が揺れる。肩が震え、唇がわななき、目尻に溜まる涙を眉間に皺を寄せることで堪える。
「生死の境、ヒトとモノとの境が曖昧なあの世界で、わたしという存在がどれほど取るに足らなかったかを思い知らされることが、怖いんです」
絞り出されたのは慟哭。刻まれたのは自嘲。ついにこぼれることのなかった涙に縁取られ、歪んだ瞳が輝いている。いびつな、だけど何よりも強い、意志の光。
「……帰るのに、時間の隔たりはない。俺も、実際には一体幾年逍遥したかなど、もはや覚えてもいない」
「けれど、記憶は残るんでしょう? こうしてここで生きた、この、苦しいほどに生を実感した記憶は、消えないのでしょう?」
勘違いを正しても、娘は首を横に振る。瞬きによって零れた涙は、頬の途中で乱雑に拭われる。
「わたしは怖かった。あの世界で、自身の命さえ実感できず、ただ漫然と呼吸を繰り返す自分が怖かった。死は遠く、死にたかったわけではないのに死に怯え、生きていることがわからなかった。今、ここでこうして知る喜びを、何ひとつ得られなかった」
「……」
息を呑んだのは、それが知盛にも痛いほどに覚えのある葛藤だから。
己が生きていることを実感したくて死を求め、平穏という泥の中に沈むことを恐れていた。それを拭ったのは軍場での命の駆け引きであり、世界を逍遥することで希求した還りつく場所。
この平穏の中で、静かに生きていくこともできるのだと。長い長い時間をかけて、そう、思い至った。それとは少し違う、けれど本質が重なり合う決意を、娘は吐露しようとしている。
「求められることを喜び、罪科さえ飲み下して生き抜くことを希求し、生きていることに感謝できるこの世界で生きようと、そう決めました。その時、わたしは帰ることを捨てました」
声は震えていたが、迷いは消えていた。残されたのは、凄絶なまでの覚悟。
「だから、この世界で生きていきます。許される限り、わたしはこの世界に在り、あなたの鞘でありたいと欲します」
宣言は凛と響いた。涙に濡れた頬も、顰められた眉根も、決して娘の思いを穢すものではない。まっすぐに見据え、逆鱗をつき返して言い放った娘に、ならばと知盛は体を起こして向き直る。
胸元にずいと突きつけられた拳は、やんわりと、確かな意思をもって拒絶した。
「……持っていろ」
「わたしには、必要のないものです」
「それでも、だ。持って、常に二つの道を抱え、その上で……この世界に、在りつづけろ」
返された言葉に息を呑み、次いで娘は表情を引き締める。
「わたしの意思を、試しておいでなのですか?」
「そういうわけでは、ないさ」
剣呑さもあらわに問い返されても、知盛は怯まない。ゆるりと常の調子で首を振り、しかし真摯な表情で娘を見据える。
「――俺は、お前が欲しい」
突き返した拳から放した手で髪を一房掬い上げて引き寄せると、視線を伏せて知盛は唇でそっと触れる。長さがあるがゆえに決して娘の体を拘束する力は持たないが、そこから見上げる視線が、見慣れた戯れでしかない光景が、娘の心を縛りつける。
Fin.