それは眠りを醒ます声
告げられた言葉の意味を、目を見開いたままゆっくりと理解していく娘を見据え、知盛は言葉を重ねる。
「いくつも、いくつもの世界を、さまよった。そのすべてにお前の存在はなく……俺は、お前を求めて、ここに帰り着いた」
父も母もいて、弟妹も、従兄弟たちもいた。満たされることのない退屈な日々。軍場にのみ生を感じられる、あまやかな毒に侵された日々。何も変わることなどないと思っていたのに、気づけば胸元に水晶を探り、握り締め、世界に向かって吼えていた。
帰せ還せ、必ず行き着く。その咆哮が、その執着が。その希求が何に向いているのかを知ったときの戸惑いと安堵を、知盛は今なお鮮明に思い出せる。
「お前より美しい女を、知っている。……色香のある女も、知っている。歌の才、楽の才、舞の才。お前より優れた才を持つ女を、俺は存分に知っている」
「……無学無才であることは、わたしが一番理解しています」
「逸るなよ……。まだ、途中だ」
ようやく調子が戻ってきたのか、途端に不機嫌な表情でそっぽを向いた娘の頬に髪を手放した指を滑らせ、やわらに笑いながら引き戻す。
流れた髪から、かぎ慣れた香が燻る。淡く淡く、仄かな甘さ。年に一度、綿に集めて含むあの朝露に似た、清廉な甘さ。
「お前の存在は、濁らない。俺の知るいかな女とも違い、お前は濁らない。……凛とあり、あるいは深閑」
退屈な日常に降って湧いた非日常に、わずかばかりの好奇心を抱いた、それが始まり。風変わりな小娘は、少しずつ日常に馴染みながら、けれど決して己の芯を譲らず、自ら宣した覚悟を穢さなかった。
譲って、折れて、擦り合せたように見せかけて、実のところは貫いている。それは、己というものを正しく把握していればこそなせる振る舞い。興味は募り、関心は尽きず。知るほどに得がたく思い、思うほどに恋しくなった。
「俺は、お前という存在が、欲しい。……お前がいないことに違和を覚え、お前がいる場所へ帰りたいと願い……、この世界でお前を見出し、手が届くことに安堵した」
凡百な、しかし稀有なる娘。その存在を鞘にと言い交わした段階で、気づくべきだったのだと、今だからこそ思う。己にとってこの娘の隣とは、平穏が退屈ではなく安寧として存在する場所なのだと。
拘束というにはあまりにも弱い力で頬を捉え、まっすぐに双眸を覗き込んで知盛は続ける。
「お前の存在を、縛るつもりはない。それは、お前を濁らせる」
そして俺は、そんなことはしない。それはお前への侮辱であり、俺自身への裏切り。それは、許しがたい愚行。
付け加えられた呟きは掠れ、瞳は静かに澄んでいる。
「帰りたくなったら、還ればいい。それがお前の選択なら……、それが、お前を濁らせない術、なのだろう。そのための伝を、知ってて示さないのは、俺の矜持が許さない」
「だから、わたしに持っていろと? わたしがわたしとして、あなたがあなたとして、存在を歪めないために?」
「そうだ。……還れないお前は、いない。ここには、帰らないお前がいる……そうだろう?」
ぎこちない所作で瞬き、ようやく絞り出した声に滲む非難と揶揄、そしてすべてを包む深い理解の色に、知盛は満足を覚えて口の端を吊り上げる。
「ここにいろ……。この世界の、この俺の傍らに。在りつづけろよ――」
滅多に紡がぬ娘の名を、それは愛しそうに、大切そうに、深く深く紡いだ知盛の双眸に、じわりと力が篭められる。
「天の世界になど、目を向けるな。……たとえ誰が乞わずとも、俺が、お前を恋い続ける」
乞う口調で行くなと命じ、帰れると言いながら添えた指を離さない。振り払うのは簡単で、きっとそうすれば無理強いなどしないだろう。そのすべてをわかっていて、そして振りほどかないのは娘の意思。
囚われたのはいつからで、どちらが先で、そしていつまで続くのか。埒の明かない思考の螺旋は、転がり落ちるに任せて放置する。ただ、耳朶を打った細く長く吐き出される呼気に、深紫の瞳がわずかに和み、張り詰めていた声がそっとやわらぐのを他人事のように感じ取る。
「だから、羽衣を纏っても、天には往くな。地上に……俺の手の届くところに、在り続けてはもらえまいか?」
頬に添えていた指をゆるりと動かして涙の跡を辿り、顔にかかっていた横髪を耳の後ろへと撫でつける。まだ微かに戸惑いを滲ませるくせに、くすぐったそうな、嬉しそうなその仕草は、強気な普段を霞ませるほどに素直であどけない。
「許される限り、ここで生きると申し上げました」
そして返された声は、静穏だった。しとやかに、しなやかに、それは娘の覚悟を告げる。欲し、求め、恋うると、その言葉の意味や深さを知盛の思惑どおりに捉えたかまでは見抜けなかったが、何があろうとも傍らに在り続けると、その意思を改めて明言されたことに満たされ、安堵を噛み締める己を知る。
「大体、纏った覚えもない羽衣を持っておいでになられても、使い方がわかりません」
「なに、天女の物は、天女に返すべきだと思ってな」
続けて紡がれたのは、意識してだろう軽やかな声に載せられた言葉遊びだった。混ぜ返す意図を過たず汲み取り、今度ははっきりと笑いを滲ませた声で、知盛は投げかけられた言葉に応えて軽やかに嘯く。言いながら近づけた唇で眦に残っていた涙の気配を拭い去り、うなじを辿った指で背筋を辿る。
肩に額を乗せ、ひそやかに吐息がこぼす。娘もまたそっと瞳を閉ざし、短い髪を梳く動作を再開させたことを感じながら、知盛は改めて、世界の描いた未来図とやらに抗う罪を負う覚悟を胸に刻んでいた。
それは眠りを醒ます声
(はじまりはここに、おわりもここに)
(そして、さあ、)
(奈落の夢から醒めたわたしは、無間の現に牙を剥く)