朔夜のうさぎは夢を見る

それは眠りを醒ます声

 宗旨替えとは、なんとも言いえて妙なこと。確かに、人通りのある濡れ縁で昼寝をするなど、それこそ幼かりし頃以来であろう。まして、通りがかった娘を見かけ、その場の思いつきに任せてそのまま腰を落とすなど、初めての試みだった。
 武術を磨けば磨くほど、人の気配に敏くなり、そのすべてが神経に障るようになった。浅くなる眠りに比例するように求める眠りの時間は長くなり、近寄る人間を減らすようになった。元より騒がしいことは嫌いだから、邸に仕える人間は厳選してある。それでも、睡眠を妨げることのないよう、昼寝の折でさえ場所を定めていた知盛の気まぐれな甘えとしか言いようのない行動に、気を利かせて御簾の向こうから下がっていった女房たちの、好奇心と微笑ましさを半分ずつ混ぜたような視線がまざまざと思い返される。
「さあ、起きられたのならお戻りください。わたしはまだ仕事が残っているのです」
「……主人を放り出してまで、一体何をすると?」
「睡眠は邪魔の入らぬ場所でという主義主張を、いずこに捨ててきたんですか!」
 心得たもので、本格的にまどろんでいた最中は呼吸さえ殺して密やかに控えていた娘も、狸寝入りを見破ると同時に遠慮容赦をかなぐり捨てる。混ぜ返し、切り返し。ゆらゆらと言葉遊びに興じる知盛に語気を強め、それでも膝から放り出さないあたりはさすがの心構えか、ありがたい気遣いか。


 底の見えない深紫の双眸が、くるりと寝返りを打つことで娘に向けられる。憤慨を伝えるために髪を梳くことをやめた指が、行き場を失って宙に浮く。
「捨ててきたさ……。すべて、時空の彼方に……な」
 浮いた指を捉え、胸の上へと引き落とす。すっかり馴染んだからつい忘れがちになるが、この娘もまた異世界よりの迷い人。ならばと、知盛ははじめて思いを馳せる。
 ならば、この娘も還りたいと思う世界があるのだろうか。時空を渡り歩き、世界を睥睨し、たったひとつの証を求めてさまようほどに、帰還を願う世界が。
「……かえりたいか?」
 思いが溢れて零れ落ちた言の葉を、少し、哀しいと思った。


 どれほど人位を上がろうとも、所詮人は人。天から堕ちた娘を天に還す術はなく、ゆえに娘を帰そうとは思わなかった。娘も帰る術がないことをわかっており、還りたいとは泣かなかった。
 これまでに見たことのないその特異な存在の仕方に興味を覚え、女房として召し上げた。素材の良さを早々に見抜いた他の女房達の躾によって雅さを身につけようとも、生まれ持った気質は変えようがない。結果、どこまでもどこか風変わりな娘であったものの、どの女君にもないその芯の通った凛とした佇まいが好ましかった。だから、踏み込み、傍らに佇むことを許し、所望した。安らかな眠りを預ける枕とし、休まることのない神経を眠らせる鞘とした。それが、二人の関係性。
 唐突な問いかけにきょとんと目を見開いた娘に、知盛は繰り返す。
「ここは、お前の在るべき世界ではないと……そう、感じるか? お前は、お前の在った世界に、還りたいか?」
 見開かれていた瞳の奥に、揺らぎが走る。戸惑い。痛ましさ。郷愁。そして、悲しみ。胸元に捕らえた指が、震える。


 はたりと、瞬きを落として、娘は視線を持ち上げた。庭をさまよい、桜木をさまよい、梢を抜けて空を見透かす。
「帰れるとでも、お思いですか」
 残酷な人。仄かな笑声に載せられた声は、静かな非難と侮蔑に濡れている。
「わたしは所詮人に過ぎず、世界を超えるのは神の業。人は人の枠の中でしか生きられず、奇跡は人の手では起こせない。そう改めて教えたのは、他ならぬあなたです」
 戻ってきた双眸は、自嘲に歪んでいる。
「残酷で、でも優しい人。届かぬ希望に心が壊れる前に、あなたはわたしに居場所を与えてくださいました。だから、わたしはここで生きています。ここが、わたしが骨を埋める世界です」
 絶望と受諾、自嘲と慈愛、相反する色を溶かしあい、すべてを飲み下して凛とある。この娘の美しさは、その、何ものに染まろうとも己を失わない芯の強さだと知盛は認識している。


 指の震えは納まっていた。声は静かで、拍動に乱れはない。
「――夢を」
 それでも、指先は冷たかった。
「長い夢を、見ていた」
 言い切り、知盛が瞬くのと同時に外された視線は、再び庭に投げ出されている。その先を追いかけ、知盛はゆるりと呟く。
「世界をさまよい、世界を見失う“夢”、だ」
 娘は黙っていた。ことさらに耳を傾ける気配も、聞き流して無視する気配もない。自由になる指先でやわらに銀糸を梳き、ただ知盛の独白に沈黙を添える。
「俺は、帰ることを望んだ。在るべき世界に還り、在るべき場所で生きることを……望んだ」
 今になって思う。もしや、死の覚悟さえ踏みにじられたあの数多の世界は、帰りたいと願う己が希求の裏返しでもあったのではないかと。


 いっそここで終わろうと思うと同時に、これでようやく還れると思っていた。その願いの強さもまた、こうして帰りつくまで“死”という終焉から遠ざけられていた要因ではないか、と。
「……還れない、というわけでは、ないらしい」
 ひくりと跳ねた指先は、必死に装った平静の向こうにぎこちなさを孕ませている。胸元に留めていた指を放すと、首筋を辿って襲の下から引き出し、鎖の留め具を手探りで外したそれを娘の指に絡ませる。
「時空を超え、世界を超える……力の具現。いつ辿りつくかは知れぬが、これがあれば、世界を渡れよう」
 揺らぎ、降ってきた視線は畏怖に染まっている。信じられないと叫び、なぜそんなものを持っているのかと糾弾する。けれど知盛は知っている。娘が、決して知盛の言葉を否定などしないことを。
「遠からず、龍神の神子も現れる」
「りゅうじんの、みこ」
「聞いたことは、あろう? かの、救世の神子殿の伝説を」
「まさか、でも、あれは単なる御伽噺で――」
「……根も葉もない御伽噺は存在せぬと、そういうことらしいぜ?」
 呆然と繰り返す娘に畳み掛け、嗤う知盛は白くなめらかな光沢を発する鱗を完全に娘に押し付け、手を放す。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。