それは眠りを醒ます声
ゆっくりと呼吸を繰り返し、いまだ癒えぬ疲弊からきているのだろう睡魔に絡め取られる前にと、知盛はなんとか言葉を紡ぐ。
「部屋に戻して、寝かせてやれ。倒れられては……夢見が、悪い」
「そう思って、私も一度はお部屋にお連れしたのですが」
喘鳴が耳につく。深い呼吸を意識することで鼓動に併せて響く節々の痛みをやり過ごす向こうで、弟の困りきった、しかし愛しげに揺れる声が憎たらしく続く。
「お目覚めになると同時に、どうやらこちらにお戻りになられたようで。兄上のご無事を確認なさるまで、安心して眠ることもできないご様子」
思いもよらなかった説明に思わず目を見開いて見上げれば、心得た様子で重衡は表情を取り繕う。慈愛と気遣い、そしてほんのわずかな憧憬。向けられた瞳はいつになく穏やかで、それこそが知盛の心をかき乱す。
「蓮華の君をこちらにて休ませますご許可をいただきとう存じます。兄上の邸の女房ならば、無粋なことも申しますまい」
言って返事を待たないまま、重衡は実に優雅な所作で娘の頭を床に横たえた。
「多少寝苦しいやも知れませぬが、この場でお休みになられることが、もっとも心安きことでしょうから」
用意のいいことに、頭の下には知盛が普段就寝時に使っている上掛け代わりの衣が畳んで敷いてある。
頭のすぐ横であどけなく呼吸を繰り返す娘は、深く寝入っているようだった。動かされても反応せず、むしろ身じろいで姿勢を整え、一層深く息をつく。
「どうぞ、まだお休みなさいませ。次にお目覚めになられた折には、重湯などお持ちいたしましょう」
許可を求める口調で断定し、勧める口調で命じる。なんだかんだと、口では勝てないことを知っているから、知盛は早々に諦めて提案を受け入れる。
思わず目で追ってしまった娘から顔を背けて再度視界を閉ざす。微かに感じる間近の体温に安堵を覚えた己を自嘲し、誤魔化すように言葉を残す。
「……衣を、かけてやれ」
「お借りしても?」
「………好きにしろ」
笑う気配がやわらかいのはやはり気に喰わなかったが、衣擦れの音が向かう先を察し、従順な行動を理由に不満を殺すことにする。言葉尻は吐息に混じり、掠れて消える。
薄れゆく感覚の向こうで「重衡殿? 知盛殿のご様子はいかがです?」と問う母の声を聞いた気がしたが、もはや意識を再浮上させる余力もない。笑い混じりの声を潜め、気配を揺らした弟がなんと答えたのか。妙な気がかりばかりを残し、かそけき菊花香に包まれるように、知盛はすべての感覚を鎖した。
完全に目を覚ましてからがまた、面倒の連続だった。もっとも、前触れもなく倒れ、高熱にうなされて結局十日も床から出られなかったのだから、むべなるかな。
いまだ重盛の死の衝撃が色濃く尾を引いている一門の者たちに、次は、と過剰なまでに心配をされている自覚もある。おまけに、薬師を呼んでも原因は不明。僧侶や陰陽師を呼んでも皆目見当がつかないともなれば、不安に表情を曇らせることしかできないだろう。
当の本人たる知盛としては、原因は明白。連戦による疲労と、傷痕以外名残りなど残ってもいない怪我に加え、鎧を着たまま海に沈んだがための無理が祟ったのだとわかっているが、馬鹿正直に説明するわけにもいかない。誰が信じるというのか、こんなにも荒唐無稽な、あるいはかの有名な龍神の神子伝説にも匹敵する御伽噺を。
「いつから宗旨替えをなさったのです?」
「つい先日……だな」
回復はしたが、本復とは言いがたい。暇さえあればごろりと横たわって惰眠をむさぼるのは知盛の常だったが、ちょうどいい言い訳ができたとばかり、その傾向は強まるばかりである。参内から戻り、政務やら雑務やらをさっさと片付け、今日も今日とて知盛は簀子でだらりと足を投げ出し、ほとんど散ってしまった桜を眺めている。
降り注ぐ日差しにうつうつとまどろみ、手すさびにもてあそぶのは蒼黒の髪先。文句を言いつつも短い銀糸を梳く指がやまないのは、諦めゆえか、優しさゆえか。けろりと返せば溜め息が落ちる。その何気ない反応さえ、懐かしく愛しい平穏の象徴。だからこそ手放せないと、知盛は胸中にごちる。
「たった一晩で、ずいぶんと子供返りなさったこと」
「素直さが足りぬと、そう、言われたゆえな?」
「そういうところが、素直ではないと申し上げているのです」
「おや。では、これでもまだ足りぬと。……枕殿はずいぶんと、俺を幼く考えておいでのようだ」
「………自覚の上なのですから、幼子のそれとは比べものにならないほど性質が悪いと思いますけど」
飾ろうともしない皮肉に喉の奥で笑いを転がし、止まってしまった指に続きを促す。退屈なことこの上ない、しかし充たされた時間。
深くやわらかな息を吐き、知盛は声を出さずに笑う。この時間を守るためと、それを、軍場を駆ける理由にしてもいいかもしれない。ふと、そんなことさえ思う。
Fin.